第十四話:氷室の台帳

 氷室の台帳。


 事件の中心にあるのは氷だ。氷が持ち出された記録が曖昧で、用途欄が空白だった。

 “空白”は、ただの怠慢じゃない。誰かが作った穴だ。


 私はガウェインの立会いで、会計係ベネディクトを呼び出した。

 場所は氷室の隣の事務室。窓は小さく、机は硬く、空気はいつも乾いている。紙の匂いだけが濃い。


 ベネディクトは入ってくるなり、顔色の悪さを隠そうともしなかった。汗が滲み、指先が無意識に紙の端をいじっている。


「……また私ですか、公爵令嬢」


 声が震えている。


「ええ、またあなたです」


 私は淡々と言って、台帳を机の上に置いた。音を立てないように置いたのに、部屋の静けさがそれを大げさに響かせた。


「前回、あなたは用途欄の空白を“うっかり”で片づけようとした。急いでいた、忙しかった、署名が薄い……」


 ページを開き、問題の箇所を指でなぞる。


「でも、今回は別のものを見つけました」


 ベネディクトの喉が鳴った。


「……な、何を」


「印章です」


 私は台帳を数ページめくり、同じ欄を見せた。


「あなたの部署の印章は、押し方に癖がある。右下が少し薄くなる。毎回、同じ」


 ベネディクトは答えない。答えられない。


 私は次のページをめくった。


 そこで、指を止める。


「……このページだけ、癖が消えている」


 印影の輪郭がくっきりしている。右下も均一。押した人間の手が違う。


 ベネディクトの顔が引きつった。


「……そ、それは……その日は……」


「その日は、誰が押したの?」


 ベネディクトの口が開く。でも、何も出ない。


 背後でガウェインが低く言った。


「答えろ」


 ベネディクトがびくりと肩を跳ねさせた。


「……わ、私は……」


「嘘」


 私は被せた。迷いは見せない。


「紙も違う」


 台帳の端を指で軽く擦る。繊維の立ち方が微妙に違う。白さが違う。普段のページはもう少し黄味があるのに、ここだけ新しい。


「このページだけ差し替えたのね」


 沈黙が落ちた。


 蝋燭の火が揺れ、机の上の印影が一瞬だけ歪む。嘘が揺れた瞬間みたいだった。


 ベネディクトは唇を噛み、ついに崩れた。


「……わ、私は……違う……!」


 声が裏返る。


「殺人なんて……! 私は、そんな……!」


 ――出た。


 私は身を乗り出した。


「殺人の話をしました?」


 ベネディクトの顔色が真っ青になった。自分で口を滑らせたと理解した目。


 もし文官がここにいたら、きっと叫ぶ。

 “やはりこいつだ!”と。


 帳簿を改ざんした。動揺している。だから犯人。

 そういう短絡は、この学院の空気に似合いすぎる。


 私は、その楽な結末が嫌いだ。


「ベネディクト」


 声を落とす。冷たく、けれど正確に。


「あなたがやったのは、台帳の差し替えと印章の偽造。――それだけでも重罪よ。でも“殺人”とは切り分ける」


 ガウェインが眉をひそめる。


「切り分け?」


「ええ」


 私は台帳を閉じ、ベネディクトを真っ直ぐ見た。


「あなたの改ざんは雑です。差し替えたページの紙質が微妙に違う。印章の癖も変わる。殺人の隠蔽にしては粗い。――あなたは完璧な犯罪者ではない」


 ベネディクトの瞳が潤む。怖いのだ。終わるのが。


「……わ、私は……!」


「あなたが隠したいのは氷の出納の“金”でしょう?」


 私は言い切った。


「氷は高い。氷魔法使いも氷の魔道具も希少で、氷は贅沢品です。少し削れば利益になる。帳簿の数字を誤魔化して、差額を懐に入れる……その程度の横領」


 ベネディクトの肩が落ちた。図星だ。


 ガウェインが低く唸る。


「横領だけで台帳を差し替えるか」


「横領は、ばれれば人生が終わる」


 私は答える。


「人は“人生が終わる”と思うと、犯罪の尺度を見失う。……でも、横領と殺人では重さが違う」


 私は続けた。


「横領は裁かれるべき。でも、やっていない殺人の罪まで背負わせて終わりにするのは、私の矜持が許しません」


 ガウェインが私を睨む。


「お前の矜持で人が助かると思うな。明朝、お前が裁かれるぞ」


「だからこそ、正しく裁くのです」


 私は言い返した。


「間違った犯人で終われば、真犯人は笑い、次の犠牲者を作る」


 ベネディクトは震える手で額を押さえ、嗚咽した。


「……だ、誰にも言わないでくれ……私は……家族が……」


「家族のために罪を犯す人間は多い」


 私は冷たく言った。


「でも、その罪を“殺人”にすり替えるのは別。あなたの家族を守るために、別の命を踏み台にするな」


 ベネディクトの涙が机に落ちた。


 私は最後の問いを投げる。


「台帳を差し替えたのは、いつ。誰に協力を頼んだ」


 ベネディクトは首を振った。


「……ひ、一人で……できるんだ。紙を……買って……印章は……」


「印章は簡単に偽造できない」


 ガウェインが低く言う。


 ベネディクトは歯を食いしばった。


「それだけは……口が裂けても言えない……!」


 今は追い詰めすぎない。

 彼を完全に潰せば、真犯人に繋がる証言が消える。


 私は息を整え、話を切り替えた。


「運搬箱の件。氷を運ぶ箱に、図書館の備品札が付いていた。あなたは知っている?」


 ベネディクトがびくりと反応した。


「……し、知らない……」


「知らないはずがない。氷の運搬はあなたの部署が関わる」


「違う!」


 彼は叫ぶように言った。


「箱は……箱は……氷室の備品じゃない! あれは図書館のやつだ! うちの管轄外だ!」


 私は目を細める。


「管轄外、つまり?」


 ベネディクトは自棄になったように吐き捨てた。


「図書館の箱なんて、誰でも勝手に持ち出せるんだよ! 備品庫の鍵? 形だけだ! 忙しけりゃ開けっぱなし! 助手がいりゃ運ぶ! 掃除係も使う!」


 空気が固まった。


 ガウェインの目が鋭くなる。


(……やっぱり)


 氷室は鍵と台帳で守られている。

 でも“運ぶ道具”は守られていない。犯人はそこに穴を見つけた。だから怪しまれずに運べた。


 図書館の箱で、氷を運ぶ。

 そして、凶器になるものも運ぶ。


 私はベネディクトに言った。


「あなたの横領は必ず裁かれる。逃げ道はない」


 ベネディクトが震える。


「……でも……殺人は……」


「ええ。殺人は別の人間よ」


 私は立ち上がり、台帳を閉じた。


「あなたが差し替えたページは私が預かる。印章の癖も、紙質も、改ざんの痕として残る。――つまり、記録は信用できない、と公式に言えるようになる」


 それは大きい。

 “台帳が絶対”という前提が崩れれば、犯人の逃げ道が減る。


 ガウェインが低く言った。


「結局、矢印は図書館か」


「ええ」


 私は頷く。


「箱を自由に持ち出せる者。記録の外で動ける者。――そして、風を制御する知識に触れられる者」


 扉へ向かいながら、私は最後にベネディクトへ振り返った。


「ベネディクト。生き残りたいなら思い出しなさい。図書館の箱を“いつ”“誰が”持ち出していたか。あなたが見た些細な違和感を」


 ベネディクトの瞳が揺れた。保身のための記憶が、真実の鍵になる。


 私は外へ出た。


 明朝の鐘は近い。

 でも、今夜ひとつ線が太くなった。


 帳簿は偽造されていた。

 横領と殺人は別。

 そして――箱は誰でも使える。


 犯人は、穴の多い場所を選ぶ。


 穴の多い場所は、静かな図書館だ。

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