第十二話:作られた台本
走って証拠を追いかける代わりに、私は“言葉”を拾うことにした。
氷室の冷え方。水滴の跡。図書館の備品札。
物は嘘をつかない。けれど、この事件は物だけで終わらない。
マリアは聖女だった。
――いや、「聖女にされていた」。
◇
翌朝。大聖堂へ向かう道は、人の声がいつもより低かった。
噂は街を冷やす。誰もが口を閉じ気味で、目だけが忙しい。
施しの列は前回より短い。それでも、マリアの名は途切れなかった。
「マリア様は、いつも“弱き者の痛みを我が痛みとして”……」
「そうそう、“弱き者の痛みを我が痛みとして”、私たちを助けてくれました」
「本当にね……“弱き者の痛みを我が痛みとして”……」
私は足を止めた。
三人が、同じ言葉を言った。
一言一句、同じ。
偶然なら、語尾が揺れる。助詞が変わる。言い回しが崩れる。
褒め言葉ほど、人は自分の癖を混ぜる。
これは違う。
覚えたまま出している。祈祷文みたいに。
私は近くの老婆に、できるだけ穏やかに聞いた。
「その言葉、どこで覚えたの?」
老婆は困ったように笑った。
「どこ、と言われましても……皆がそう言うので……」
「皆が言う。つまり、最初に言った人がいるわね」
老婆の目が泳いだ。
答えがあるのに、口にしたくない目。
私は次に、若い婦人へ。
「マリア様の良いところを、一つだけ。あなたの言葉で教えて」
婦人は迷いなく言った。
「“清らかな微笑みで人の罪を赦す”お方ですわ」
それも、聞いたことがある。
――何度も。
私は、少し離れた位置にいた少年にも同じ質問をした。
「マリア様って、どんな人だった?」
少年は胸を張って言う。
「“清らかな微笑みで人の罪を赦す”人!」
今度は、施しの列の最後尾にいた男。
「マリア様のどこが好き?」
「“光のように皆を導く”お方だ」
光のように皆を導く。
それも、同じ言葉で聞いたことがある。
背中に、嫌な汗が滲んだ。
噂が広がるのは普通だ。
けれど、ここまで揃うのは普通じゃない。
流されているんじゃない。配られている。
(聖女は、自然には生まれない。作られる)
私は列の脇を通り、施しの机の方へ回った。
籠の中に、紙片が見えたからだ。小さな紙。祈りの札のように折られている。
私は係の修道士に視線だけで許可を取り、そっと一枚だけ取った。
表には短い文章が丁寧な字で書かれている。
弱き者の痛みを我が痛みとして。
清らかな微笑みで人の罪を赦す。
光のように皆を導く。
言葉は、配られていた。
紙で。
私はその紙を懐に入れ、大聖堂の奥へ向かった。
司祭の部屋。指輪の司祭のところだ。
◇
扉を叩くと、すぐに開いた。
司祭は前回と同じ笑顔を貼りつけている。
「公爵令嬢殿。再びお越しとは。マリア様のために祈りを――」
「祈りではなく、言葉の出所を教えて」
私は遮った。
司祭の笑みが、ほんの少し薄くなる。
「言葉……とは?」
私は懐から紙片を出し、机の上に置いた。
「これ。施しの籠の中に入っていたわ」
司祭の目が一瞬だけ止まる。
それから、何も見なかったみたいに笑う。
「祈りの助けです。悲しみに沈む者は、言葉が必要ですから」
「悲しみに沈む者が、同じ文句を一字一句違えずに言う。便利ね」
司祭は肩をすくめた。
「人は善い言葉に救われます。言葉が広まれば、それだけで――」
「“広まる”じゃない。“覚えさせている”」
私は言い切った。
「人の言葉は似ても、ここまで同じにはならない。暗唱よ。祈祷文のように」
司祭の瞳が、ほんの一瞬だけ鋭くなる。
すぐ慈悲の仮面に戻るが、私は見逃さない。
「……公爵令嬢殿は、教会を疑うのですか」
その一言で、頭の中に安い答えが浮かんだ。
教会が聖女を作り、民心を掴み、王権に影響を持つ――そういう大きな話。
でも私は、その答えを飲み込んだ。
今必要なのは、派手な陰謀じゃない。確実な“手”だ。
私は司祭の机の上を見た。
寄付記録。配給記録。整いすぎた字。清書の匂い。
「司祭。教会が組織として動いたなら、もっと紙が増えるはずよ」
「……何が言いたいのです」
「説教の草稿。配布の指示。連絡。承認。印。大きい組織は、痕が残る」
司祭の口角が、わずかに固くなる。
「公爵令嬢殿は……聖女を、汚したいのですか」
綺麗な言葉だ。
でも、守りの言葉。
私は笑った。薄く。悪役の仮面として。
「汚す? 私は逆よ。汚れを拭いて、事実を見るだけ」
そして、机の上の紙片を指でトントンと叩いた。
「これは教会の救いじゃない。もっと、個人的な商売」
司祭の目が細くなる。
「……商売?」
「マリア本人、あるいはマリアに極めて近い誰かが、“聖女の台本”を作った。そして、マリアの栄光によって寄付を増やす。寄付の一部はあなたとマリアの懐に入る」
司祭の笑みが消える。
ほんの一瞬。
その一瞬で、十分だった。
私は深く追わなかった。教会を敵に回すのは危険だし、今は時間がない。ここで取るべきは、台本の存在を確信すること。
どちらにせよ、マリアは清廉潔白な被害者ではない。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます