第十二話:作られた台本

 走って証拠を追いかける代わりに、私は“言葉”を拾うことにした。


 氷室の冷え方。水滴の跡。図書館の備品札。

 物は嘘をつかない。けれど、この事件は物だけで終わらない。


 マリアは聖女だった。

 ――いや、「聖女にされていた」。



 翌朝。大聖堂へ向かう道は、人の声がいつもより低かった。

 噂は街を冷やす。誰もが口を閉じ気味で、目だけが忙しい。


 施しの列は前回より短い。それでも、マリアの名は途切れなかった。


「マリア様は、いつも“弱き者の痛みを我が痛みとして”……」

「そうそう、“弱き者の痛みを我が痛みとして”、私たちを助けてくれました」

「本当にね……“弱き者の痛みを我が痛みとして”……」


 私は足を止めた。


 三人が、同じ言葉を言った。

 一言一句、同じ。


 偶然なら、語尾が揺れる。助詞が変わる。言い回しが崩れる。

 褒め言葉ほど、人は自分の癖を混ぜる。


 これは違う。

 覚えたまま出している。祈祷文みたいに。


 私は近くの老婆に、できるだけ穏やかに聞いた。


「その言葉、どこで覚えたの?」


 老婆は困ったように笑った。


「どこ、と言われましても……皆がそう言うので……」


「皆が言う。つまり、最初に言った人がいるわね」


 老婆の目が泳いだ。

 答えがあるのに、口にしたくない目。


 私は次に、若い婦人へ。


「マリア様の良いところを、一つだけ。あなたの言葉で教えて」


 婦人は迷いなく言った。


「“清らかな微笑みで人の罪を赦す”お方ですわ」


 それも、聞いたことがある。

 ――何度も。


 私は、少し離れた位置にいた少年にも同じ質問をした。


「マリア様って、どんな人だった?」


 少年は胸を張って言う。


「“清らかな微笑みで人の罪を赦す”人!」


 今度は、施しの列の最後尾にいた男。


「マリア様のどこが好き?」


「“光のように皆を導く”お方だ」


 光のように皆を導く。

 それも、同じ言葉で聞いたことがある。


 背中に、嫌な汗が滲んだ。


 噂が広がるのは普通だ。

 けれど、ここまで揃うのは普通じゃない。


 流されているんじゃない。配られている。


(聖女は、自然には生まれない。作られる)


 私は列の脇を通り、施しの机の方へ回った。

 籠の中に、紙片が見えたからだ。小さな紙。祈りの札のように折られている。


 私は係の修道士に視線だけで許可を取り、そっと一枚だけ取った。

 表には短い文章が丁寧な字で書かれている。


 弱き者の痛みを我が痛みとして。

 清らかな微笑みで人の罪を赦す。

 光のように皆を導く。


 言葉は、配られていた。

 紙で。


 私はその紙を懐に入れ、大聖堂の奥へ向かった。

 司祭の部屋。指輪の司祭のところだ。



 扉を叩くと、すぐに開いた。

 司祭は前回と同じ笑顔を貼りつけている。


「公爵令嬢殿。再びお越しとは。マリア様のために祈りを――」


「祈りではなく、言葉の出所を教えて」


 私は遮った。


 司祭の笑みが、ほんの少し薄くなる。


「言葉……とは?」


 私は懐から紙片を出し、机の上に置いた。


「これ。施しの籠の中に入っていたわ」


 司祭の目が一瞬だけ止まる。

 それから、何も見なかったみたいに笑う。


「祈りの助けです。悲しみに沈む者は、言葉が必要ですから」


「悲しみに沈む者が、同じ文句を一字一句違えずに言う。便利ね」


 司祭は肩をすくめた。


「人は善い言葉に救われます。言葉が広まれば、それだけで――」


「“広まる”じゃない。“覚えさせている”」


 私は言い切った。


「人の言葉は似ても、ここまで同じにはならない。暗唱よ。祈祷文のように」


 司祭の瞳が、ほんの一瞬だけ鋭くなる。

 すぐ慈悲の仮面に戻るが、私は見逃さない。


「……公爵令嬢殿は、教会を疑うのですか」


 その一言で、頭の中に安い答えが浮かんだ。

 教会が聖女を作り、民心を掴み、王権に影響を持つ――そういう大きな話。


 でも私は、その答えを飲み込んだ。

 今必要なのは、派手な陰謀じゃない。確実な“手”だ。


 私は司祭の机の上を見た。

 寄付記録。配給記録。整いすぎた字。清書の匂い。


「司祭。教会が組織として動いたなら、もっと紙が増えるはずよ」


「……何が言いたいのです」


「説教の草稿。配布の指示。連絡。承認。印。大きい組織は、痕が残る」


 司祭の口角が、わずかに固くなる。


「公爵令嬢殿は……聖女を、汚したいのですか」


 綺麗な言葉だ。

 でも、守りの言葉。


 私は笑った。薄く。悪役の仮面として。


「汚す? 私は逆よ。汚れを拭いて、事実を見るだけ」


 そして、机の上の紙片を指でトントンと叩いた。


「これは教会の救いじゃない。もっと、個人的な商売」


 司祭の目が細くなる。


「……商売?」


「マリア本人、あるいはマリアに極めて近い誰かが、“聖女の台本”を作った。そして、マリアの栄光によって寄付を増やす。寄付の一部はあなたとマリアの懐に入る」


 司祭の笑みが消える。

 ほんの一瞬。


 その一瞬で、十分だった。


 私は深く追わなかった。教会を敵に回すのは危険だし、今は時間がない。ここで取るべきは、台本の存在を確信すること。


 どちらにせよ、マリアは清廉潔白な被害者ではない。

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