第十一話:聖女の裏

夜が明ける前の時間は、学院全体が息を潜めているみたいに静かだった。


殿下が口にした期限が、ずっと背中に残っている。


氷室で見つけた図書館の備品札。運搬箱の失踪。水跡。医務官が言った針のような刺突と、異常な低温。

糸は揃いつつある。けれど、糸を結ぶ最後の結び目――「人」がまだ薄い。


だから私は、彼女のところへ戻った。


リリア・エヴァンス。


礼拝堂で膝をついていた少女は、学院の別棟の小さな客室に“保護”されていた。保護と言えば聞こえはいい。実際は監視だ。扉の外には近衛、窓は半分しか開かない。


廊下でミラを待たせ、私は一人で部屋に入った。


リリアはベッドの端に座り、指先を絡めていた。目の下には濃い影。泣いた跡は乾いているのに、肌がまだ青白い。


「……ロザリア様」


怯えた声。でも、目の奥は昨日より少しだけこちらに寄っている。

私が、彼女を最初から犯人扱いしなかったからだ。


「無駄な敬語はやめなさい」


私は椅子に腰を下ろし、逃げ道を塞ぐみたいに言う。


「今は私が味方かどうかを確かめる時間じゃない。真実を拾う時間よ。……もう一度聞く。事件の夜、あなたは何を見た?」


リリアの喉が鳴った。


「……お姉様が……呼び出されて……」


「誰に?」


「……わ、分かりません……。手紙が……」


手紙。


頭の中で、あの束がよぎる。感謝の手紙。読まれた形跡のない封筒の山。ぐしゃぐしゃで、中身が抜き取られていた封筒。


でも今は、そこに飛びつかない。


「あなたは姉を慕っていた、と皆は言う。あなたもそう言った。――本当?」


リリアは一瞬、視線を泳がせた。


「……はい。お姉様は……優しくて……」


その言い方が、妙に整っている。


私は声を落とした。


「優しい人間は、優しさを証明する必要がない」


リリアがびくりと肩を震わせる。


「……ロザリア様?」


「あなたの“優しい”は、あなたの体験? それとも、言わされてきた言葉?」


沈黙が落ちる。


リリアは、答えない代わりに袖口をぎゅっと掴んだ。隠したいものがある時の、あからさまな癖。


私は椅子から立ち、距離を詰めた。


「腕、見せて」


リリアの顔がさっと青くなる。


「だ、駄目です……!」


その反応で、もうほぼ確信した。


「見せなさい」


命令口調にする。悪役令嬢の声に切り替える。

優しく言えば、彼女は優しさにしがみついて逃げる。逃げれば、明朝、彼女が死ぬ。


リリアは首を振り、涙を浮かべた。


「お願いです……見ないで……」


「見ないと、あなたは死ぬ」


私は冷たく言い切った。


「恥より命が先よ。――あなたを守れるのは、真実だけ」


リリアの呼吸が乱れる。震える指が、ゆっくりと袖を上げた。


白い腕。


内側に、痣があった。


紫が黄に変わりかけている。治りかけなのに、形がはっきりしている。しかも一つじゃない。


私は息を止めた。


(これが“聖女”の優しさ?)


リリアは慌てて袖を下ろしかけたが、私は手を伸ばさない。触れたら、また縮こまる。


ただ見て、確認する。


「いつの痣?」


リリアは顔を背けた。


「……転んだんです」


「嘘」


短く切る。


「転ぶなら肘や膝にできる。腕の内側に、こんな規則正しくは残らない」


リリアの肩が震える。


「……私は……」


「怯えるだけで終わるな」


自分の声が強く響いたのが分かった。だけど止めない。


「あなたは今まで、誰かの言葉を借りて生きてきたのでしょう。“姉を慕っていた”“優しかった”“私は悪くない”。……でも今は違う。あなたは証人になれる。あなたが語らなければ、明朝、誰もあなたの代わりに語ってくれない」


リリアの目から、涙が落ちた。


「……お姉様は……皆の前では……優しかったです」


掠れた声が、やっと“自分の言葉”になる。


「……でも、私が一人になると……変わりました。……私は養女だからって……『感謝しなさい』って……『あなたは私の影で生きるのが似合う』って……」


胸の奥が、冷たく澄んでいく。


ゲームで知っている“聖女マリア”は、こうじゃない。

でもこの世界の彼女は、ちゃんと人間だった。良いところも、悪いところも持っている人間。


私は次の確認をする。


「痣は、姉がつけた?」


リリアは小さく頷いた。


「……ごめんなさい……言うつもりじゃ……」


「謝らなくていい」


私は言い切った。


「謝るのは、真実を隠した時だけ。真実を言ったなら、それは罪じゃない」


リリアが泣きながら、少しだけ息を吸えた顔になる。


ここからだ。


私は一段、声を落として核心へ行く。


「事件の夜。姉は、どうして外へ?」


リリアは指先を絡め直した。


「……手紙が……届いたんです。お姉様宛に」


「あなたが見た?」


「……はい。私が……たまたま……」


「どんな手紙?」


リリアは必死に思い出そうとする。


「紙が……少し薄くて……急いで切ったみたいに端が揃ってなくて……。封は……簡単で……」


安い紙。簡素な封。

私が遺品で見つけた、あの“紙質が違う一通”と似ている。


「書いてあった言葉は?」


リリアは唇を震わせ、はっきり言った。


「……『氷室の裏に来い』って……他にも文章は書いてありましたが……そこしか読めませんでした……」


私は背筋が硬くなるのを感じた。


氷室の裏。遺体が見つかった場所。


「筆跡は?」


「……いつものお姉様の字とは……違ったと思います。お姉様の字は、もっと……きれいで……人に見せる字で……」


「じゃあ、その手紙の字は?」


「……まっすぐで……冷たい感じ。迷いがない……」


迷いがない字。

寄付台帳の、整いすぎた字。

図書館の帳面の、整った字。

そして――さっき会ったノアの、淀みのない答え方。


頭の中で線が増える。でも、まだ結べない。


私は次の問いに移る。


「姉は、氷室に行くような人だった?」


リリアがびくりと反応する。


「……氷室……」


目が揺れた。思い出したくない記憶がある目だ。


「答えて」


リリアは小さな声で言った。


「……お姉様は……氷が嫌いでした」


その一言で、部屋の空気が変わった。


「嫌い、というのは?」


リリアは無意識に自分の腕を撫でた。痣の場所をなぞるみたいに。


「……冷たいのが……嫌いで。氷に触れるのも、飲み物に入れるのも……。昔、父に叱られた時に……寒い場所に閉じ込められたことがあるって……」


氷が嫌い。

氷室の裏に呼び出される。

そこへ行くのが不自然。


私は結論を言葉にする。


「つまり、姉は自分から氷室へ行かない」


リリアは強く頷いた。


「はい……。だから私……変だと思ったんです。でも……逆らえなくて……」


逆らえない理由は、もう十分に見えた。

痣と、養女という立場と、外面の良い“聖女”。


私は立ち上がり、窓の外の暗さを見る。鐘楼はまだ鳴らない。だけど明朝は来る。


氷が嫌いな人間が、なぜ氷室へ行ったのか。


答えは一つじゃない。

呼び出された。脅された。取引を持ちかけられた。あるいは、嫌いでも行かざるを得ない“何か”があった。


私は振り返り、リリアに言った。


「あなたは、今夜から“怯えるだけの人”じゃない。あなたの証言は、姉の仮面を剥がす」


リリアは涙を拭きながら、頷いた。


「……私、言います。全部……」


「いい子ね、とは言わないわ」


私は少しだけ笑って、でも真剣に続けた。


「明日までに、あなたが見た“手紙”をもっと思い出して。紙の色、匂い、封の仕方、渡した人。誰が持ってきたのか。そこが一番大事」


扉の外へ出ると、廊下の冷気が流れ込んだ。


氷室の冷たさとは違う。でも、背筋が伸びる冷たさだ。


私は歩きながら考える。


マリアは妹を傷つけていた。

そしてマリアは氷が嫌いだった。


なら、あの夜、氷室へ行ったのは自分の意思じゃない。


誰かに呼ばれた。

誰かに追い込まれた。


そして、その“誰か”は、氷室と、運搬箱と、記録の穴を使える。


掌の中で、図書館の備品札が冷たい。


次の謎は、これだ。


氷が嫌いな彼女を、どうやって氷室の裏へ連れて行った?


それを証拠に変えなければならない。

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