第十話:図書館の青年

図書館は、夜でも静かだった。


氷室の前であれだけ人が声を荒げていたのに、ここへ来ると音がすっと吸われる。石造りの回廊を抜けた瞬間、空気の温度が一段下がった気がした。冷たい、というより「人の熱が届きにくい」冷え方だ。


入口には近衛が立ち、ガウェインが短く指示を出している。


「中に入るのは最小限。余計な足音を立てるな。司書が騒げば、明日の噂が増える」


文官が不満そうに鼻を鳴らしたが、ガウェインは無視した。珍しく、正しい。


アルベルト殿下は「ここで待つ」とだけ言って外に残った。助かる。殿下が中に入ると、会話の空気が勝手に裁判になる。


私は手の中の小さな札を握り直した。


氷室で見つけた運搬箱に付いていた備品札だ。証拠として持ち出す許可は殿下から得ている。表面には刻印。


『王立学院図書館 備品札 〇四一七』


(図書館の札が付いた箱が氷室にあった。偶然で片付けたら終わりだ)


背後でミラが小さく息を吸う。外套の裾を握る指が固い。


「お嬢様……」


「大丈夫。静かに、必要なことだけ聞くわ」


司書室の扉をノックする。


「……はい。どうぞ」


返事は控えめだが、慌てた様子はない。


扉を開けると、机が二つ、棚が三つ。貸出票と返却日をまとめた板が壁に掛かっている。文字が整いすぎていて、逆に息苦しい。整理は美徳。ここはそういう場所だ。


机の奥に、青年がいた。


灰色がかった黒髪。顔立ちは整っているのに印象が薄い。衣服は地味で、袖口だけが少し擦れている。目立たないのに、気配だけは妙に「ここにいるのが当然」だった。


青年は立ち上がり、深く頭を下げた。


「図書館助手のノアと申します。夜分にどうされましたか」


声は穏やかで、礼儀も正しい。


ただ――平民が貴族を前にした時の、分かりやすい怯えが薄い。視線を落とさない。息を殺さない。最初から“正しい対応”をしている。


私は机の前まで進み、備品札を見せた。


「ノア。この札、図書館のものね」


ノアの視線が札に落ちる。ほんの一瞬だけ、瞳の奥が動いた。


驚きではない。確認だ。


「はい。図書館の備品札です。〇四一七。運搬用の木箱に付けています」


「その札が付いた箱が、氷室の中にあった」


ノアの表情が、ほんの少しだけ固まる。


すぐに困ったような笑みを作ったが、作るのが早い。反応が用意されているみたいだった。


「……氷室に? それは妙ですね。図書館の箱が氷室へ行く理由は、普通はありません」


「普通は、ね」


私は椅子に腰を下ろした。視線は外さない。


「確認するわ。〇四一七の箱は、普段どこに保管しているの?」


「備品庫です。司書室の奥にあります」


「備品庫の鍵は誰が?」


「司書長です。私は開け閉めの手伝いはしますが、鍵は預かりません」


質問の順番を読んでいるみたいに、答えが滑らかだ。


後ろでガウェインが低く言う。


「箱が動いたなら、記録があるはずだ。まずそこを見せてもらえ」


文官が鼻で笑った。


「図書館の物など誰でも持ち出せるだろう。いちいち――」


「持ち出せるなら、なおさら“誰が持ち出せるか”を確認する必要がありますわ」


私は文官を切り捨て、ノアに戻した。


「ノア。備品の出入り記録はある?」


「はい。こちらに」


ノアは迷いなく棚から薄い帳面を取り出した。備品の貸出帳だ。ページを開き、慣れた手つきで指を滑らせる。


「箱番号ごとの記録です。〇四一七は……ここです」


整った文字。日付、用途、担当者。


私は問題の前夜の辺りを指で押さえた。


「前夜。この日に、〇四一七の記録は?」


ノアは一拍だけ置いて答えた。


「ありません。貸し出しも、持ち出しも」


ミラが小さく息を呑む。


ガウェインが短くまとめる。


「記録なし。だが札は氷室にあった。帳面を通さずに動かしたやつがいる」


文官が肩をすくめる。


「なら図書館の人間が――」


「断定はまだです」


私は即座に遮った。断定は誰かを楽にする。たいてい間違った方向へ。


私はノアへ視線を戻す。


「〇四一七の箱を最後に“見た”のはいつ?」


「……三日前の夕方です。備品庫の棚にありました」


即答。


即答しすぎる答えは、時々危ない。言い切るなら、確かめる。


「では今すぐ。備品庫へ案内して」


ノアの睫毛が、ほんの少しだけ揺れた。すぐに表情は整うが、ミラの指が私の袖をぎゅっと掴む。彼女も見たのだ。


「……承知しました」


ノアは先に立ち、司書室の奥へ向かった。


通路は狭く、棚が壁のように並び、紙の匂いが濃くなる。突き当たりに木の扉が一つ。


「こちらが備品庫です。鍵は……司書長が管理していまして」


「殿下の許可が出ています。ガウェイン」


ガウェインが近衛に合図すると、すぐに鍵が運ばれてきた。司書長を起こして借りたのだろう。動きが早い。


鍵が回り、扉が開く。


中は暗い。棚に木箱や布、縄、古い木枠が積まれている。地味なものばかりだ。だからこそ、欠ければ目立つ。


ノアが棚の一角を指さした。


「〇四一七は、普段ここに……」


言葉が途切れた。


そこは、空だった。


棚板には木箱を置いていた跡だけが残っている。埃の筋が一本、途切れている。最近動かした証拠だ。


ミラが口元を押さえた。


「……ない……」


ガウェインの目が鋭くなる。


「いつからだ」


ノアは喉を鳴らし、丁寧な声を保とうとする。


「……分かりません。私は……三日前に見たきりで……」


文官がすかさず言った。


「ほら見ろ。図書館の者だ。ここにいるのは――」


「黙りなさい」


自分でも驚くほど低い声が出た。


文官が口を閉じる。ガウェインも一瞬こちらを見る。


私は棚の空白を見たまま、ノアに聞く。


「ノア。この備品庫に触れられるのは誰?」


「司書長と、整理を手伝う者です。私も……その一人です」


逃げない。否定もしない。だからこそ、余計に引っかかる。


私は一歩だけ距離を詰めた。


「あなた、さっきから落ち着きすぎですわね」


ノアが目を瞬かせる。


「……申し訳ありません。驚いてはいます」


「驚いている人間は、もう少し呼吸が乱れます」


ノアの口元がわずかに動いた。ほんの一瞬、何か言いかける形。


「……それじゃ、フラ――」


ノアははっとして咳払いをした。


「……いえ。失礼しました。こんな時に、軽い言葉を」


フラ、の続きが何だったのか。


私は黙って見つめた。ノアは視線を逸らさず、きちんと頭を下げ直す。


「お気をつけください。今夜は……動きすぎると危ない」


「忠告?」


「……はい」


言葉は丁寧だ。けれど、その丁寧さが、別の意味を持つ。


(私を止めたい? それとも、助けたい?)


ガウェインが低く言った。


「助言はありがたいが、事情があるなら吐け。図書館の物が氷室に出た。これは学院の問題だ」


ノアは一度だけ目を閉じ、開いた。


「私は……記録通りに動いています。それだけです」


「記録通り、ね」


私は備品札を指で弾いた。かん、と小さな音。


「記録があるのに物が消えるなら、記録の外で動かした者がいる。……そして、その外に立てる人間は限られる」


文官が小さく舌打ちする。


「時間をかける気か」


「間違った相手を今ここで決めるより、ずっと早いです」


私は振り返り、ミラに小さく目配せした。ミラは頷き、帳面を抱え直す。今夜ここで起きたことも、残すために。


備品庫の空白は、はっきりした。


図書館の運搬箱、〇四一七は今ここにない。

そして、その札は氷室にあった。


廊下へ戻ると、ミラが小声で囁いた。


「お嬢様……あの方、変です」


「ええ」


私は備品札を握り直し、外套の襟を整えた。


「でも、変なのは悪いことじゃない。真実に近い場所には、だいたい変な人間がいますから」


そして私は歩き出した。


消えた箱の行き先を、記録の外から引きずり出すために。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る