第九話:氷室の穴

 氷室へ向かう廊下は、夜の冷えを溜め込んでいた。


 石壁は乾いた冷たさで、灯りの輪の外はすぐ闇に沈む。蝋燭の火は小さく震え、窓枠に落ちた鐘楼の影が、こちらを見下ろしている。


 ――調査。


 言葉は軽い。けれど氷室は、ただの部屋じゃない。

 氷は贅沢品で、食料の管理で、医務でも使う。ここに手を突っ込めば、必ず反発が返ってくる。


 それでも止まらない。

 止まったら、誰かが勝手に結末を決める。


 氷室の前には、すでに人が揃っていた。


 近衛騎士ガウェイン。鋼色の髪、硬い表情。

 氷室長グレゴール。背筋だけは伸びているのに、目が落ち着かない。

 会計係ベネディクト。帳面を抱えたまま、顔色が悪い。

 王太子殿下の側近の文官。「闇の魔法だ」と叫んだ男だ。


 そして最後に、アルベルト殿下本人。


 月明かりを背に立つ姿は、礼拝堂の時と同じく“裁きの中心”だった。

 けれど今夜の瞳には、ほんの少しだけ“聞く”色がある。少しだけ。油断はできない。


 私の斜め後ろには、医務官セレーネとミラが控えていた。セレーネは静かに周囲を見ている。ミラは小さく息を詰めて、私の背中を見ている。


「ロザリア」


 殿下が短く呼ぶ。


「調査の提案は許可する。ただし、氷の搬出は完全には止められない。医務室と厨房には必要最低限を回せ」


「ええ。だからこそ封鎖ではなく、管理の強化ですわ」


 一礼して、すぐ顔を上げる。


「今から鍵の動きを洗い出します。誰が、何本持ち、どこへ貸し出し、いつ返したか。全員の前で」


 文官が鼻を鳴らした。


「鍵など見れば分かる。氷室長が持っている。それで終わりだ」


「終わらないから、ここにいますの」


 私は文官を見ず、グレゴールへ視線を移した。


「氷室長。鍵は何本?」


 グレゴールは喉を鳴らし、腰の輪から鍵束を外した。金属音が夜に響いて、妙に耳障りだ。


「正規鍵は二本。私が一本、会計側が一本。開閉には本来、立ち会いと記録が必要で……」


「本来、ね」


 言葉の端を拾うと、グレゴールの肩が微かに揺れた。


「……ただし」


 殿下の眉が僅かに動く。


「ただし?」


 グレゴールは一度、言い訳を噛み砕くみたいに口を閉じ、それから続けた。


「緊急用の予備鍵が、封印箱にございます。夜間、医務室が急ぐ場合など……運用上……」


 空気がひやりと固まった。


 ガウェインが低く言う。


「予備鍵。つまり、動く可能性がある鍵だ」


「封印箱に入っており、基本は開けません! ですが……」


 私は、その“ですが”を逃がさない。


「ですが?」


 グレゴールは歯を食いしばった。


「……宴の準備、急患、点検。現場が回らぬ時に、封印箱を一時開けることが……ございます」


 文官が苛立ったように言った。


「必要な慣習だ。大組織は理想論では回らん」


「ええ。理想論では回りません」


 私は穏やかに頷き、声だけ冷やす。


「だから犯罪も、運用に紛れますの」


 殿下が視線をベネディクトへ向けた。


「貸出記録は?」


 ベネディクトが慌てて帳面を抱え直す。


「……あります。鍵の貸出帳です。日付、用途、借り手、返却……」


「見せて」


 ベネディクトが帳面を開いた。


 氷室の台帳よりずっと生々しい。インクの濃淡が揺れていて、書き直しの跡もある。運用の痕が、そのまま残っている帳面だ。


 私は問題の夜――事件の前夜の頁を探し、指でなぞった。


「医務室、厨房……」


 並ぶ署名。並ぶ返却印。

 一見すると、何も問題はない。いかにも正しい。


 ――欄外に小さく書かれた一文を見つけるまでは。


『封印箱より一時開封。返却済。』


 私は顔を上げた。


「封印箱を開けたのは誰?」


 ベネディクトの唇が震えた。


「……わ、私です……。医務室から夜間の要請があり……病人が……」


「借り手は?」


 ベネディクトが該当の行を指差す。指先が迷う。


「……医務室の助手が……」


 そこで声が詰まった。


「どうしたの」


「……名が……読めなくて……」


 私は帳面を少し引き寄せ、灯りの角度を変えた。


 読めない、ではない。

 読めないのは“文字がある場合”だけだ。


 借り手欄は空白だった。

 返却済の印だけが押されている。


 ガウェインが低く唸った。


「署名なし。封印箱開封。夜間。……都合が良すぎる」


 文官が噛みつく。


「緊急だと言っただろう! 医務の命に比べれば帳面の一行など――」


「命のためなら、なおさら誰が動いたか残すべきですわ」


 私は淡々と言い返す。


「責任が曖昧な緊急ほど、悪用しやすい。そうでしょう?」


 ベネディクトが青い顔のまま頷きかけ、すぐ首を引っ込めた。言ってはいけないことを言いそうになった顔だ。


 殿下が短く言った。


「予備鍵は、今どこにある」


 グレゴールが小さな鉄箱を示した。


「ここに。封印も……ご覧の通りです」


「確かに“今”はここにありますわね」


 私は言葉を区切った。


「でも鍵は作れます。複製された可能性は?」


 文官がすぐ反応する。


「馬鹿な! 鍵の偽造は大罪だ!」


「大罪だからやらない、とは限りませんの」


 私は微笑んだ。悪役令嬢の形だけの微笑みで。


「人は罪を犯します。特に“慣習”が抜け道を許す時」


 ベネディクトが、耐えきれないように小さく呟いた。


「……鍵を貸したまま戻らないことも……ありました……」


 私は逃がさない。


「いつ」


「……去年の夏……宴の準備で……。その後、棚の奥から出てきたと……」


 棚の奥。

 出てきた。


 その間、鍵は誰の手にあった?


 殿下が私を見る。


「ロザリア。結論は?」


 私は息を吸って、はっきり言った。


「氷室の管理は厳重です。――ただし運用に穴がある。封印箱、署名なし、過去の紛失。これで“外部は入れない”という前提は崩れました」


 ガウェインが腕を組み直す。


「容疑者は増えたな」


「ええ。増えました」


 私は微笑む。


「狭いところに押し込めて断罪するより、ずっと健全ですわ」


 文官が苛立ちを隠さず吐き捨てる。


「健全? 時間がないと言っていたのは貴様だろう!」


「時間がないから、正しく増やすのです」


 声は冷たいまま。


「間違った一人に絞れば、地獄になります」


 殿下が短く命じた。


「今夜から氷室を封鎖する。鍵はここで管理。貸出は禁止。搬出は私の許可と、ガウェイン立会いのもとでのみ」


 ガウェインが頷く。


「了解」


 グレゴールは顔を伏せたまま、震える声で言った。


「……私は……職務を……」


「責めませんわ」


 私は彼に言う。


「責めるのは今ではない。穴を塞ぐ。今はそれだけです」


 そして私は、扉へ歩み寄った。


 氷室の扉は厚い。留め具は金属。鍵穴は古い型で、確かに複製しやすそうだ。

 私は鍵穴の近くまで指先を近づけ――止めた。


 取手の金属が、ほんの僅かに濡れていた。


 冷えた金属に温かい手が触れた時の、あの薄い艶。

 床の敷石にも、点々と小さな水滴がある。乾ききっていない。まだ丸い。


(……少し前に、誰かが触った)


 背中が冷えた。


 封鎖する直前に、誰かが触った。

 中に入ったか、出たか。あるいは、確かめに来た。


 私は手を上げて全員を制した。


「静かに」


 殿下が目を細める。


「どうした」


「誰かが、この扉に触れています。ほんの少し前」


 ガウェインが一歩前に出る。剣の柄に手がかかる。


「中にいる可能性がある」


 文官が顔を引きつらせた。


「ば、馬鹿な……この場に殿下が――」


「殿下がいるからこそ動く者もいますわ」


 私は小さく言う。届く範囲の声で。


「証拠を守りたい者も。証拠を消したい者も」


 殿下が短く命じた。


「開けろ」


 ガウェインが剣を抜く。金属の鋭い音が、廊下の空気を切った。


 グレゴールの手が震えながら鍵を差し込む。

 回る。重い音。留め具が外れる。


 扉が、ぎい、と開いた。


 冷気が噴き出し、蝋燭の炎が一斉に揺れた。足元に白い霧が流れ、息が白くなる。


 私はすぐ扉の内側を見る。


 霜が薄く張った板の上に、擦れた跡があった。

 指でなぞったように、霜が五本ぶんだけ剥げている。


 しかも、霜が戻りきっていない。

 触れたのは、やっぱり“さっき”だ。


 ガウェインが剣を半分抜いたまま先に踏み込む。続いて殿下、セレーネ、私。最後に氷室長グレゴールが、怯えた顔で入ってきた。


 氷室は半地下だった。厚い石壁が冷気を抱え込み、棚には氷の塊がいくつも並んでいる。壁際には冷気を吐く魔道具がいくつか据えられ、弱い光を灯していた。


 私は足元に目を落とす。


 入口から棚の方へ、点々と水滴が続いている。冷える場所なのに、まだ丸みが残っていた。


(さっきまで、冷たいものが動いた)


 殿下が周囲を見回す。


「まずは確認だ。ここで氷はどう作っている」


 私はグレゴールを見る。


「氷室長。説明して」


 グレゴールは背筋を伸ばし、いつもの職務口調を取り戻そうとした。


「井戸水を汲み、氷を作る魔道具で冷気を当てて凍らせます。……魔法で直接“氷そのもの”を生むのではありません。あくまで水を凍らせます」


 セレーネが頷く。


「魔法で直接作った氷は、魔力そのものが元素になります。食用や薬用には向きません。だから冷気として使う。水を凍らせる、という形にするのが安全です」


 私は棚の氷に視線を移した。


「作った氷は、ここに保管する」


「はい。氷は高価ですから。氷の魔道具も、氷魔法の使い手も希少です。無駄は許されません」


 ガウェインが鼻で笑う。


「だから鍵も台帳も厳重、か」


 グレゴールは苦い顔で頷いた。


「ええ。氷は厨房だけではなく、医務室でも使います。王家の行事にも回ります。……だからこそ、管理が命です」


 殿下が短く言う。


「つまり、氷は簡単に増やせない。簡単に捨てられない。動けば、痕が残る」


「その通りですわ」


 私は水滴の列を指で示した。


「それが、今ここにあります」


 ガウェインが眉をひそめる。


「水滴くらい、氷室ならいくらでもあるだろ」


「あるなら、散ります。ここみたいに“導線”にはならない」


 私は入口の取手を指した。金属が薄く濡れている。霜が少し溶けた艶だ。


「ここも。冷えた金具に、温い指が触れた跡です」


 空気が少しだけ張った。


 殿下が命じる。


「徹底的に見ろ。氷の棚、保管用の布、運搬用の箱。備品もだ」


「了解」


 ガウェインが部下に合図し、近衛が棚を開けていく。グレゴールも震える手で備品棚の鍵を開けた。


 私は水滴の終点へ歩く。入口脇の棚の下だ。


 そこに、木製の運搬箱が置かれていた。


 角に新しい擦り傷。底にも引きずった跡。箱の内側は少し湿っていて、冷気の中でも乾ききっていない。


「……これ」


 私が言うと、殿下が近づいた。


「運搬箱か」


 グレゴールが慌てて首を振る。


「そ、それは……氷室の備品では……」


 私は箱の側面に付いた金属札を指で弾いた。


 かん、と音が鳴る。


 刻印が見えた。


『王立学院図書館 備品札 〇四一七』


 ガウェインが低く唸る。


「図書館の備品が、なぜここにある」


 殿下の目が細くなる。


「説明できるか、氷室長」


 グレゴールは青い顔のまま、かすかに首を横に振った。


「……存じません。図書館の箱が氷室に入る理由は……」


 私は箱の縁をなぞり、傷の向きを確認した。持ち上げた痕、引きずった痕。どれも最近のものだ。


 セレーネが箱の内側を覗き、短く言った。


「ここに氷を入れて運んだなら、痕は残る。濡れ方が新しい」


「つまり――」


 私は息を吸い、言葉を整える。


「誰かが氷室の氷を運び出した可能性が高い。氷が凶器かどうかはまだ断定しません。でも、遺体の冷えすぎは“氷室級”でした。冷やすために氷を使った可能性は十分あります」


 ガウェインが腕を組み直す。


「氷魔法で殺した方が早いんじゃないのか?」


 私は頷く。


「ええ。氷魔法なら“強固にして刺す”という説明がつきやすい。だから皆がそう言いたがる。でも――この箱が出た以上、魔法だけで片付けるのは早いですわ」


 殿下が箱の札を見たまま言った。


「図書館。備品庫。鍵。貸出記録」


 私は即答する。


「次は図書館です。札の番号から追えます。箱は誰が管理し、誰が動かせたか」


 殿下は一拍だけ黙って、それから短く命じた。


「行く。最小限の人数で。騒ぎは出すな」


「了解」


 ガウェインが踵を返し、近衛に指示を飛ばす。


 私はもう一度、氷の棚を見た。


 氷は高い。希少だ。だから管理が厳しい。

 厳しいのに、図書館の箱がここにある。


 それだけで十分だった。次に行く理由としては。


 私は外套の留め具に指をかけ、殿下の横に並ぶ。


「今夜中に、箱の動きを止めます。――箱が動けば、犯人の手も動きますから」

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