第八話:黒板に残る、白い粉
鐘楼の影が伸び、学院の廊下が夜色に沈み始める頃。
私は捜査の足を、あえて止めた。
焦りはある。残された時間は少ない。けれど、薄い時間ほど手当たり次第に動けば破れる。
情報は増えた。糸も増えた。増えた糸は、絡まれば首を絞める。自分の首を。
だから一度、整える。
頭の中の騒がしさを、外へ出して並べる。
◇
借りたのは、学院の空き教室だった。誰も使わない古い黒板のある部屋。窓は高く、外のざわめきが遠い。
机を一つ引き寄せ、蝋燭を灯す。炎が揺れるたび、黒板の面が暗い海みたいに光った。
隅に、ミラが控えている。小さな帳面を胸に抱えた姿が、いつもより少し硬い。
私の部屋の出入り記録。彼女の忠誠が、紙の形になってしまったもの。
「お嬢様……図書室へ行かれるのでは?」
「行きますわ。けれど、その前に、頭を整える」
私は黒板の前に立ち、白墨を握った。指先が少し冷たい。
氷室の冷たさではない。もっと嫌な冷え方だ。あの夜の空白が、まだ私の内側に貼りついている。
(考えろ。怖がるな。怖がりながら考えろ)
白墨が、きい、と鳴った。
私は黒板に大きく三本の柱を引いて、そこへ事実を押し込めていく。
――
1)現場と発見
・場所:学院の氷室裏の小道/物置扉が半開き
・第一発見:リリア(叫び声→人が集まる)
・時間:夜の祈祷が終わる頃(鐘の回数しか分からない)
2)物と記録
・氷室:鍵+台帳で厳重管理
・台帳:空白(用途欄が空白/数量は生きている/署名がない)
・運搬:氷運搬箱/備品札(番号)
・貸出先:図書館(箱の札に紐づく)
3)被害者と周辺
・マリア:聖女の評判/寄付と救貧
・記録:整いすぎ(清書みたいに美しい)
・私物:感謝の手紙の束(読まれた形跡が薄い)/空の潰れた封筒(中身抜き取り)
――
書き終えて、一歩下がる。
糸はある。穴もある。
けれど、一番肝心なところが空白だ。
私は白墨を持ち直し、黒板の中央に大きく書いた。
死因は何?
ミラが小さく息を呑む。
私の声が、自分でも驚くほど低く出た。
「皆、当然のように言いますわね。氷魔法で刺された、と」
ミラが恐る恐る頷く。
「……霜が降りていたと……皆さま……」
「霜も、ね」
私は黒板に短く書き足した。
霜/冷気の痕跡(=氷魔法の証拠扱い)
その横に線を引いて、さらに書く。
霜=魔法、は証拠か?
白墨の粉が、指にぱらりと落ちた。
霜があるから魔法。冷たいから魔法。傷があるから魔法。
それで終わらせれば、誰も考えなくて済む。誰も痛くない。
痛いのは、断罪される者だけだ。
「刺されたのか、凍ったのか……それすら確定していない」
ミラが戸惑った顔をする。
「でも……傷が……」
「“傷がある”と、誰が見たの?」
ミラの唇が震えた。
「……皆さまが……そう……」
「皆さま。つまり、噂ですわ」
私は言い切り、黒板に書く。
傷口=誰が確認?(専門家?/見物人?)
見物人の目は興奮している。興奮した目は、見たいものしか見ない。
私はふと、氷室の冷気を思い出した。頬を叩く冷たさ。息が白くなる冷え。
氷室の近くなら、霜は魔法がなくても付く。
白墨で、太く書く。
霜の出方に法則は?
風はどう流れる。冷気はどこに溜まる。吐息はどこへ消える。
魔法がある世界でも、空気は動く。水は凍る。氷は溶ける。溶ければ消える。
(溶ければ消える。だから、凶器も消える)
思考がそこまで進んだ瞬間、背中を舐めるような気配が戻ってくる。
昨夜、何をした?
なぜ私の部屋に、水滴の跡があった?
そして、鏡台の奥に残っていた黒い外套の端布。
私は白墨の音で追い払うみたいに、黒板の端へ小さく書いた。
私:記憶の欠落/水滴跡/外套の端布
その横に矢印を引く。言葉は短く、硬く置いた。
私は犯人にされる側
書いた瞬間、胸の奥が少しだけ落ち着く。
犯人かもしれない、ではない。
誰かが、そう見える形を用意している。
なら、戦い方は決まる。
私は黒板の中央へ戻り、最後に一つだけ問いを大きく書いた。
死は冷たさで作れるか?
答えを持つ者が要る。
魔法の噂話ではなく、身体の事実を見られる目が。
私は机の上のベルを鳴らし、廊下の近衛へ声をかけた。
「医務室の責任者を呼んで。今すぐ。王太子殿下の名で」
近衛が目を丸くした。
「この時間に医務官を?」
「ええ。朝まで待てるほど、悠長ではありませんの」
彼は戸惑いながらも走っていった。
◇
しばらくして、控えめなノックが響いた。
「失礼いたします」
入ってきたのは女性だった。背は高くないが姿勢が真っ直ぐで、目が強い。白衣のような外套の袖口に医務室の印。
髪は淡い銀色。瞳は落ち着いた緑。若いのに、場慣れした気配がある。
「医務官セレーネです。王太子殿下の名で呼ばれたと伺いましたが」
声が澄んでいる。感情で揺れない声。事実を見る人間の声だ。
私は一礼し、黒板を指差した。
「セレーネ。聞きたい。マリア様の死因は、刺されたの? 凍ったの?」
セレーネの視線が黒板を走る。霜、氷室、空白、運搬箱、手紙束。
彼女は一瞬だけ眉を寄せて言った。
「断言はできません。ただ、所見ならお話できます」
喉の奥で、安堵に似たものを噛み締めた。
ようやく、死体の情報が手に入る。
セレーネは手帳を取り出し、淡々と続ける。
「まず。刺されたという結論自体は、ほぼ確実です。ただし――」
一拍置いて、言い切る。
「通常の刃物ではありません」
胸の奥がきゅっと締まる。
「刃物ではない?」
「少なくとも、剣やナイフのように刃の幅を持つものではない。裂ける傷ではなく、刺し込まれた傷です」
セレーネは空中に小さな点を描いた。
「一点の刺突。傷口が開いていない。周囲の裂けも少ない。刃が引かれた痕がない」
(針……)
推理が浮かびかける。私はすぐ押し込める。先に事実。
「刺し傷は一つ?」
「外から確認できたのは主に一つ。衣服に血が少なかったことも含め、深く大きく切り裂いたものではない。ただ――」
セレーネは言葉を選ぶように続けた。
「刺突は場所次第で、少ない血でも致命になります」
私は頷き、すぐ次を問う。
「死因は刺殺? それとも凍死?」
「解剖なしでは断定しません。ですが、外見から言えることがもう一つあります」
セレーネの目が細くなった。
「遺体が、冷えすぎている」
教室の空気がひゅっと冷えた気がした。
「冷えすぎている……?」
「夜気で冷えた、では説明がつきません。不自然です」
黒板に書いた問いが、形を持って戻ってくる。
「不自然、とは?」
「冬の夜気なら、露出した部位からゆっくり冷えます。霜も薄く、広がり方にムラが出る。ところが、あの方は特定の範囲が強く冷やされている。まるで……」
セレーネは一瞬だけ言い淀み、窓の外の暗さへ視線を滑らせた。
「まるで、冷気を当てられたように」
私は喉が鳴るのを感じた。
飛びつきたい。けれど、飛びつけば足を取られる。だから確認する。
「つまり、夜の寒さだけでは足りないほど冷えていた」
「ええ。氷室のように」
氷室。
その一言で、黒板の「氷室」の文字が急に血の通ったものになる。
私は白墨を掴み、書き足した。
傷:針状の刺突(裂傷ではない)
低温:夜気では説明困難/氷室級
世界が少しだけ整理される。
整理は、次の混乱も連れてくる。
◇
ノックもなく扉が開き、鋼色の髪の騎士――ガウェインが顔を出した。後ろには文官が一人。紙束を抱え、目がぎらついている。
「まだこんな所で遊んでいたのか、公爵令嬢」
「遊びなら、あなたの稽古の方がよほどですわ」
私は笑って返した。刃を合わせる余裕を見せないと、こちらが飲まれる。
文官が前に出た。声が高い。急いでいる声だ。誰かに叱られる前に結論を作りたい声。
「医務官の所見が出たと聞いた。刺突の傷、そして異常な低温。……つまり、魔法だ」
彼は言葉を継ぎ足すみたいに続ける。
「氷魔法ではない。なら闇の魔法だ。見えぬ刃、凶器が残らない。今は秩序が必要だ。これ以上、学院を揺らすな」
秩序。
便利な言葉だ。誰かを黙らせるのに丁度いい。
ガウェインが腕を組む。
「公爵令嬢は闇魔法を扱う。……お前に都合が悪い所見だな」
内臓を冷たい指で撫でられた気がした。
(来た。私に矢が向く)
闇魔法。見えない暗器。針状の刺突。凶器がない。記憶の欠落。
繋げれば、私が犯人に見える線はいくらでも引ける。
私は唇を吊り上げた。
「都合が悪いのは、あなた方ですわ。闇の魔法と決めてしまえば、調べなくて済む」
文官が眉を吊り上げる。
「魔法を疑うのか?」
「疑います。魔法がある世界だからこそ、魔法が逃げ道になりやすい」
私は黒板を指差した。
「針状の傷、異常な低温。ここまでは事実。ですが“闇の魔法”は推測です。推測で人を裁くのは、礼拝堂で見たのでもう十分」
「凶器がないではないか!それこそ、魔法である証拠だ!!」
「凶器がないのは、凶器が消えた可能性もある」
空気が変わった。
ガウェインの眉が僅かに動く。文官の口が止まる。
私は畳みかけた。
「刺突の傷を作れる物理的な凶器はあります。弓矢でも、細い短剣でも。――そして、氷なら溶けて消える」
文官が吐き捨てる。
「氷? 馬鹿な。折れる。形が崩れる!」
「だからこそ、氷室級の低温が関わる」
私はセレーネを見る。彼女は小さく頷いた。
その一つの肯定が、私の言葉をただの挑発から主張へ変える。
「遺体が冷えすぎている。霜の付き方が不自然。つまり、現場は冷やされている」
文官が顔をしかめる。
「それが氷魔法の痕跡ではないのか」
「痕跡があるなら、なおさら“冷やした者”がいる。問題はそれが魔法か、場所か、道具か。いま一番確かなのは氷室級の冷えです」
私は黒板の「氷室」の文字を指で叩いた。
「この学院で、氷室級の低温が自然に手に入る場所はどこ?」
ガウェインが苛立ったように言う。
「氷室だろう」
「ええ」
私は息を吸い、言葉を揃えて投げた。
「なら氷室を疑うのが筋です。魔法という言葉で思考を止める前に、氷室の出入りと冷気の流れを確認する。証拠が残るのは、噂より場所ですわ」
文官が口を開くより早く、ガウェインが低く言った。
「……氷室は食料と医務に必要だ。封鎖などできん」
「封鎖の仕方はあります」
私は冷たく笑った。
「氷室を丸ごと閉めるのではない。出入りを止め、鍵の管理と台帳を今この瞬間から監視する。搬出は必要最小限。立会者を増やし、運搬箱の備品札を確認する。封鎖とは、閉じることではなく、管理を強めることです」
ガウェインが私を睨む。
「……そんなことをすれば、現場は混乱する」
「混乱しているのは今も同じですわ。違いは、その混乱を真実に向けるか、誰かを吊るすために使うか」
一瞬の沈黙。
その中で、セレーネが静かに口を開いた。
「私は医務官として、事実を優先します。遺体の冷え方は確かに異常です。氷室級の低温が関与した可能性は高い」
文官が顔を引きつらせる。反論したいが、専門家に言い返す言葉がない。
ガウェインが、舌打ちを噛み殺すように言った。
「……殿下に伝える。だが、明朝までだ。結果が出なければ、お前の提案ごと切り捨てる」
「明朝までで十分です」
私は言い切った。
胸の奥が震えている。恐怖もある。けれど輪郭が見えてきた興奮が、それ以上に熱い。
ガウェインは扉を閉める直前、低い声で吐き捨てた。
「公爵令嬢。闇の魔法が嘘なら、証明してみせろ」
私は微笑んだ。悪役の微笑みで。
「証明しますわ。だから、氷室を調べます」
扉が閉まる。
教室に残ったのは、蝋燭の揺れと、黒板の白い文字。
白い粉が、指先にまだ残っている。
◇
「……魔法は便利すぎますわ」
私は黒板の「氷室級」の文字を見上げた。
「便利だから、皆がそこへ逃げる。だから私は、逃げられないものを追う。場所。物。記録。人の手」
ミラが小さく呟く。
「氷室……」
「ええ」
私は頷く。
「今夜、氷室を調査します。運搬箱の備品札も確認する。図書館の番号が本物かどうか、確かめる」
セレーネが言った。
「冷気の流れも見たい。氷室の構造は、霜の出方に影響します」
「あなたの目が必要です。今夜だけ、私に貸して」
セレーネは迷いなく頷いた。
蝋燭の炎が、彼女の瞳に小さな光を作っている。その光は、断罪の熱とは違う。冷たく、正確で、折れにくい。
私は黒板の中央を見た。
死因は何? と、白い文字がこちらを睨んでいる。
答えは、まだ全部は出ていない。
けれど少なくとも、魔法の一言で終わらせる場所からは、もう抜けた。
そして――私に向けられた矢も、ここから折る。
白墨の粉を払い、私は外套の留め具に指をかけた。
「行きましょう。氷の道筋を、残しておくために」
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