第八話:黒板に残る、白い粉

 鐘楼の影が伸び、学院の廊下が夜色に沈み始める頃。


 私は捜査の足を、あえて止めた。


 焦りはある。残された時間は少ない。けれど、薄い時間ほど手当たり次第に動けば破れる。

 情報は増えた。糸も増えた。増えた糸は、絡まれば首を絞める。自分の首を。


 だから一度、整える。

 頭の中の騒がしさを、外へ出して並べる。



 借りたのは、学院の空き教室だった。誰も使わない古い黒板のある部屋。窓は高く、外のざわめきが遠い。

 机を一つ引き寄せ、蝋燭を灯す。炎が揺れるたび、黒板の面が暗い海みたいに光った。


 隅に、ミラが控えている。小さな帳面を胸に抱えた姿が、いつもより少し硬い。

 私の部屋の出入り記録。彼女の忠誠が、紙の形になってしまったもの。


「お嬢様……図書室へ行かれるのでは?」


「行きますわ。けれど、その前に、頭を整える」


 私は黒板の前に立ち、白墨を握った。指先が少し冷たい。

 氷室の冷たさではない。もっと嫌な冷え方だ。あの夜の空白が、まだ私の内側に貼りついている。


(考えろ。怖がるな。怖がりながら考えろ)


 白墨が、きい、と鳴った。


 私は黒板に大きく三本の柱を引いて、そこへ事実を押し込めていく。


――


1)現場と発見

・場所:学院の氷室裏の小道/物置扉が半開き

・第一発見:リリア(叫び声→人が集まる)

・時間:夜の祈祷が終わる頃(鐘の回数しか分からない)


2)物と記録

・氷室:鍵+台帳で厳重管理

・台帳:空白(用途欄が空白/数量は生きている/署名がない)

・運搬:氷運搬箱/備品札(番号)

・貸出先:図書館(箱の札に紐づく)


3)被害者と周辺

・マリア:聖女の評判/寄付と救貧

・記録:整いすぎ(清書みたいに美しい)

・私物:感謝の手紙の束(読まれた形跡が薄い)/空の潰れた封筒(中身抜き取り)


――


 書き終えて、一歩下がる。


 糸はある。穴もある。

 けれど、一番肝心なところが空白だ。


 私は白墨を持ち直し、黒板の中央に大きく書いた。


 死因は何?


 ミラが小さく息を呑む。

 私の声が、自分でも驚くほど低く出た。


「皆、当然のように言いますわね。氷魔法で刺された、と」


 ミラが恐る恐る頷く。


「……霜が降りていたと……皆さま……」


「霜も、ね」


 私は黒板に短く書き足した。


 霜/冷気の痕跡(=氷魔法の証拠扱い)


 その横に線を引いて、さらに書く。


 霜=魔法、は証拠か?


 白墨の粉が、指にぱらりと落ちた。


 霜があるから魔法。冷たいから魔法。傷があるから魔法。

 それで終わらせれば、誰も考えなくて済む。誰も痛くない。

 痛いのは、断罪される者だけだ。


「刺されたのか、凍ったのか……それすら確定していない」


 ミラが戸惑った顔をする。


「でも……傷が……」


「“傷がある”と、誰が見たの?」


 ミラの唇が震えた。


「……皆さまが……そう……」


「皆さま。つまり、噂ですわ」


 私は言い切り、黒板に書く。


 傷口=誰が確認?(専門家?/見物人?)


 見物人の目は興奮している。興奮した目は、見たいものしか見ない。

 私はふと、氷室の冷気を思い出した。頬を叩く冷たさ。息が白くなる冷え。

 氷室の近くなら、霜は魔法がなくても付く。


 白墨で、太く書く。


 霜の出方に法則は?


 風はどう流れる。冷気はどこに溜まる。吐息はどこへ消える。

 魔法がある世界でも、空気は動く。水は凍る。氷は溶ける。溶ければ消える。


(溶ければ消える。だから、凶器も消える)


 思考がそこまで進んだ瞬間、背中を舐めるような気配が戻ってくる。


 昨夜、何をした?

 なぜ私の部屋に、水滴の跡があった?

 そして、鏡台の奥に残っていた黒い外套の端布。


 私は白墨の音で追い払うみたいに、黒板の端へ小さく書いた。


 私:記憶の欠落/水滴跡/外套の端布


 その横に矢印を引く。言葉は短く、硬く置いた。


 私は犯人にされる側


 書いた瞬間、胸の奥が少しだけ落ち着く。

 犯人かもしれない、ではない。

 誰かが、そう見える形を用意している。


 なら、戦い方は決まる。


 私は黒板の中央へ戻り、最後に一つだけ問いを大きく書いた。


 死は冷たさで作れるか?


 答えを持つ者が要る。

 魔法の噂話ではなく、身体の事実を見られる目が。


 私は机の上のベルを鳴らし、廊下の近衛へ声をかけた。


「医務室の責任者を呼んで。今すぐ。王太子殿下の名で」


 近衛が目を丸くした。


「この時間に医務官を?」


「ええ。朝まで待てるほど、悠長ではありませんの」


 彼は戸惑いながらも走っていった。



 しばらくして、控えめなノックが響いた。


「失礼いたします」


 入ってきたのは女性だった。背は高くないが姿勢が真っ直ぐで、目が強い。白衣のような外套の袖口に医務室の印。


 髪は淡い銀色。瞳は落ち着いた緑。若いのに、場慣れした気配がある。


「医務官セレーネです。王太子殿下の名で呼ばれたと伺いましたが」


 声が澄んでいる。感情で揺れない声。事実を見る人間の声だ。


 私は一礼し、黒板を指差した。


「セレーネ。聞きたい。マリア様の死因は、刺されたの? 凍ったの?」


 セレーネの視線が黒板を走る。霜、氷室、空白、運搬箱、手紙束。

 彼女は一瞬だけ眉を寄せて言った。


「断言はできません。ただ、所見ならお話できます」


 喉の奥で、安堵に似たものを噛み締めた。

 ようやく、死体の情報が手に入る。


 セレーネは手帳を取り出し、淡々と続ける。


「まず。刺されたという結論自体は、ほぼ確実です。ただし――」


 一拍置いて、言い切る。


「通常の刃物ではありません」


 胸の奥がきゅっと締まる。


「刃物ではない?」


「少なくとも、剣やナイフのように刃の幅を持つものではない。裂ける傷ではなく、刺し込まれた傷です」


 セレーネは空中に小さな点を描いた。


「一点の刺突。傷口が開いていない。周囲の裂けも少ない。刃が引かれた痕がない」


(針……)


 推理が浮かびかける。私はすぐ押し込める。先に事実。


「刺し傷は一つ?」


「外から確認できたのは主に一つ。衣服に血が少なかったことも含め、深く大きく切り裂いたものではない。ただ――」


 セレーネは言葉を選ぶように続けた。


「刺突は場所次第で、少ない血でも致命になります」


 私は頷き、すぐ次を問う。


「死因は刺殺? それとも凍死?」


「解剖なしでは断定しません。ですが、外見から言えることがもう一つあります」


 セレーネの目が細くなった。


「遺体が、冷えすぎている」


 教室の空気がひゅっと冷えた気がした。


「冷えすぎている……?」


「夜気で冷えた、では説明がつきません。不自然です」


 黒板に書いた問いが、形を持って戻ってくる。


「不自然、とは?」


「冬の夜気なら、露出した部位からゆっくり冷えます。霜も薄く、広がり方にムラが出る。ところが、あの方は特定の範囲が強く冷やされている。まるで……」


 セレーネは一瞬だけ言い淀み、窓の外の暗さへ視線を滑らせた。


「まるで、冷気を当てられたように」


 私は喉が鳴るのを感じた。

 飛びつきたい。けれど、飛びつけば足を取られる。だから確認する。


「つまり、夜の寒さだけでは足りないほど冷えていた」


「ええ。氷室のように」


 氷室。

 その一言で、黒板の「氷室」の文字が急に血の通ったものになる。


 私は白墨を掴み、書き足した。


 傷:針状の刺突(裂傷ではない)

 低温:夜気では説明困難/氷室級


 世界が少しだけ整理される。

 整理は、次の混乱も連れてくる。



 ノックもなく扉が開き、鋼色の髪の騎士――ガウェインが顔を出した。後ろには文官が一人。紙束を抱え、目がぎらついている。


「まだこんな所で遊んでいたのか、公爵令嬢」


「遊びなら、あなたの稽古の方がよほどですわ」


 私は笑って返した。刃を合わせる余裕を見せないと、こちらが飲まれる。


 文官が前に出た。声が高い。急いでいる声だ。誰かに叱られる前に結論を作りたい声。


「医務官の所見が出たと聞いた。刺突の傷、そして異常な低温。……つまり、魔法だ」


 彼は言葉を継ぎ足すみたいに続ける。


「氷魔法ではない。なら闇の魔法だ。見えぬ刃、凶器が残らない。今は秩序が必要だ。これ以上、学院を揺らすな」


 秩序。

 便利な言葉だ。誰かを黙らせるのに丁度いい。


 ガウェインが腕を組む。


「公爵令嬢は闇魔法を扱う。……お前に都合が悪い所見だな」


 内臓を冷たい指で撫でられた気がした。


(来た。私に矢が向く)


 闇魔法。見えない暗器。針状の刺突。凶器がない。記憶の欠落。

 繋げれば、私が犯人に見える線はいくらでも引ける。


 私は唇を吊り上げた。


「都合が悪いのは、あなた方ですわ。闇の魔法と決めてしまえば、調べなくて済む」


 文官が眉を吊り上げる。


「魔法を疑うのか?」


「疑います。魔法がある世界だからこそ、魔法が逃げ道になりやすい」


 私は黒板を指差した。


「針状の傷、異常な低温。ここまでは事実。ですが“闇の魔法”は推測です。推測で人を裁くのは、礼拝堂で見たのでもう十分」


「凶器がないではないか!それこそ、魔法である証拠だ!!」


「凶器がないのは、凶器が消えた可能性もある」


 空気が変わった。

 ガウェインの眉が僅かに動く。文官の口が止まる。


 私は畳みかけた。


「刺突の傷を作れる物理的な凶器はあります。弓矢でも、細い短剣でも。――そして、氷なら溶けて消える」


 文官が吐き捨てる。


「氷? 馬鹿な。折れる。形が崩れる!」


「だからこそ、氷室級の低温が関わる」


 私はセレーネを見る。彼女は小さく頷いた。

 その一つの肯定が、私の言葉をただの挑発から主張へ変える。


「遺体が冷えすぎている。霜の付き方が不自然。つまり、現場は冷やされている」


 文官が顔をしかめる。


「それが氷魔法の痕跡ではないのか」


「痕跡があるなら、なおさら“冷やした者”がいる。問題はそれが魔法か、場所か、道具か。いま一番確かなのは氷室級の冷えです」


 私は黒板の「氷室」の文字を指で叩いた。


「この学院で、氷室級の低温が自然に手に入る場所はどこ?」


 ガウェインが苛立ったように言う。


「氷室だろう」


「ええ」


 私は息を吸い、言葉を揃えて投げた。


「なら氷室を疑うのが筋です。魔法という言葉で思考を止める前に、氷室の出入りと冷気の流れを確認する。証拠が残るのは、噂より場所ですわ」


 文官が口を開くより早く、ガウェインが低く言った。


「……氷室は食料と医務に必要だ。封鎖などできん」


「封鎖の仕方はあります」


 私は冷たく笑った。


「氷室を丸ごと閉めるのではない。出入りを止め、鍵の管理と台帳を今この瞬間から監視する。搬出は必要最小限。立会者を増やし、運搬箱の備品札を確認する。封鎖とは、閉じることではなく、管理を強めることです」


 ガウェインが私を睨む。


「……そんなことをすれば、現場は混乱する」


「混乱しているのは今も同じですわ。違いは、その混乱を真実に向けるか、誰かを吊るすために使うか」


 一瞬の沈黙。


 その中で、セレーネが静かに口を開いた。


「私は医務官として、事実を優先します。遺体の冷え方は確かに異常です。氷室級の低温が関与した可能性は高い」


 文官が顔を引きつらせる。反論したいが、専門家に言い返す言葉がない。


 ガウェインが、舌打ちを噛み殺すように言った。


「……殿下に伝える。だが、明朝までだ。結果が出なければ、お前の提案ごと切り捨てる」


「明朝までで十分です」


 私は言い切った。

 胸の奥が震えている。恐怖もある。けれど輪郭が見えてきた興奮が、それ以上に熱い。


 ガウェインは扉を閉める直前、低い声で吐き捨てた。


「公爵令嬢。闇の魔法が嘘なら、証明してみせろ」


 私は微笑んだ。悪役の微笑みで。


「証明しますわ。だから、氷室を調べます」


 扉が閉まる。


 教室に残ったのは、蝋燭の揺れと、黒板の白い文字。

 白い粉が、指先にまだ残っている。



「……魔法は便利すぎますわ」


 私は黒板の「氷室級」の文字を見上げた。


「便利だから、皆がそこへ逃げる。だから私は、逃げられないものを追う。場所。物。記録。人の手」


 ミラが小さく呟く。


「氷室……」


「ええ」


 私は頷く。


「今夜、氷室を調査します。運搬箱の備品札も確認する。図書館の番号が本物かどうか、確かめる」


 セレーネが言った。


「冷気の流れも見たい。氷室の構造は、霜の出方に影響します」


「あなたの目が必要です。今夜だけ、私に貸して」


 セレーネは迷いなく頷いた。

 蝋燭の炎が、彼女の瞳に小さな光を作っている。その光は、断罪の熱とは違う。冷たく、正確で、折れにくい。


 私は黒板の中央を見た。

 死因は何? と、白い文字がこちらを睨んでいる。


 答えは、まだ全部は出ていない。

 けれど少なくとも、魔法の一言で終わらせる場所からは、もう抜けた。


 そして――私に向けられた矢も、ここから折る。


 白墨の粉を払い、私は外套の留め具に指をかけた。


「行きましょう。氷の道筋を、残しておくために」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る