第七話:鐘が刻む、曖昧な夜
――次は、殺害時間だ。
氷室、運搬箱、備品札。糸は繋がり始めている。けれど糸を絞るには、“いつ”が要る。いつ凶器が使われ、いつ遺体が冷え、いつ人が集まったのか。
現場の夜を時刻で縛れなければ、誰も捕まえられない。
そして私は思い出す。
この世界には、私が知る「分」「秒」がない。
(時間は鐘と祈りで測る。――なら、まずそれを聞きに行く)
◇
治安維持を担う近衛騎士、ガウェイン。昨日、祈祷室の扉前で腕を組んでいた男だ。鋼色の髪、顎に刻まれた薄い傷。表情は常に硬い。人を疑うことに慣れすぎた顔。
詰所は学院の門に近い小さな小屋だった。分厚い扉。窓は狭い。中へ入ると、紙と革と金属の匂いが混じる。壁には巡回表と鐘楼の見取り図、祈祷の時間割。――時計の代わりに、規律が貼られている。
その規律の端に、乾いた墨で小さく書かれた注意書きがあった。
「鐘楼当番:ガウェイン班」
(当番……。鐘は勝手に鳴らない。鳴らす人間がいる)
扉を開けると、ガウェインは机上の文書から目を上げた。視線が私を刺す。
「公爵令嬢。今度は何を壊しに来た」
第一声がそれ。敵意が、香のように部屋に満ちる。
「壊すのは予定調和だけですわ。――質問に答えて。遺体発見のはいつ頃なの?」
ガウェインは鼻で笑った。
彼は椅子にもたれ、腕を組む。
「見つかったのは、夜の祈祷が終わる頃だ」
「夜の祈祷、とは」
「鐘楼の鐘が三度鳴った後、聖堂で短い祈りがある。学内の規律だ。巡回もそれに合わせて動く」
私は眉を寄せた。
「三度鳴った後、どれくらい?」
ガウェインは私を見て、わざとらしく息を吐いた。
「……それを聞くか。祈りは祈りだ。長い日も短い日もある。修道士の気分次第だ」
その瞬間――外で、鐘が一度鳴った。
低く、重い音。窓硝子がわずかに震え、壁に掛けられた金具が小さく鳴る。詰所の空気が、音に合わせて締まった。
ガウェインの視線が、反射みたいに壁の巡回表へ走る。腕を組んだまま、指先だけが動く。
――癖。規律に縛られた身体の反応。
(鐘が鳴れば動く。鳴らなければ、曖昧になる)
苛立ちが喉の奥で泡立つ。だが怒れば負けだ。私は笑ってみせる。
「つまり、“祈祷の時間”は正確ではない。鐘も、回数でしか示さない」
「そうだ。時間など庶民には不要だろう」
庶民の話ではない。捜査の話だ。
私は机の上の巡回表を指差した。
「では、あなた方の巡回はどう回しているの?」
「鐘だ。鐘が一度鳴れば交代、二度鳴れば祈り、三度鳴れば門限」
当然のように言う。
この当然さが、犯人を助ける。
私は息を吐いた。
(分単位のアリバイ崩しは不可能。つまり――犯行時間は広くなる)
広い時間は、犯人に優しい。
私は声を低くした。
「……死亡推定は?」
ガウェインの目が細くなる。彼は医師でも修道士でもないが、遺体を見慣れた兵の目がある。
「医務室の者が言うには、“冷え方”から見て、発見よりだいぶ前だ。だがそれも曖昧だ。夜は冷える。場所も冷える。……氷魔法で殺されたなら尚更な」
彼は続けた。
「それと――現場は混乱していた。泣き叫ぶリリア、集まる貴族、怒鳴る教師。誰がいつ来たかなど、全員が勝手なことを言う」
私は頷いた。そこは想定通りだ。人は自分の都合で時間を作る。
「第一発見者は誰?」
「リリアだ。だが、いつ“見つけた”のかは正確には分からん。叫び声を聞いた者が駆けつけ、さらに人が増え、殿下に伝わった」
「殿下が来たのは?」
「発見されてからしばらく経ってからだ。……と言われている」
“と言われている”。
笑いたくなった。笑えないのに。
私は椅子の背を指先で撫で、問いを変えた。
「ガウェイン。あなたはリリアを疑っているの?」
ガウェインの顔が動く。ほんの僅か。だが確かに。
「疑わない理由があるのか」
真っ直ぐな男だ。だから厄介だし、だから使える。
「ちなみに、あなた達の巡回記録に、私の姿はある?」
ガウェインは一瞬だけ黙った。考えているのではない。質問の意図が読めないのだ。自分の行動記録があるかと聞く人間は普通はいない。
やがて彼は、机の引き出しから薄い報告書を取り出した。
「巡回記録はまとめてある。……お前の姿は、記録にはない」
胸の内に、安堵がかすかに灯る。だが同時に、別の恐怖が立ち上がる。
(記録にないから無実、ではない。時間が曖昧なら、記録の外に動ける)
私は机の上に手を置き、体を少し前に出した。
「ガウェイン。あなたが望む結末は何? 正義の執行? それとも真実?」
ガウェインの口元が歪む。
「真実など、後からいくらでも飾れる。今必要なのは、秩序だ」
その言い方が、どこか聞き覚えがあった。
胸の奥が、冷える。
同調の心理。秩序のために、誰かを悪にする。
私は冷たく言った。
「秩序のための犠牲があなたの正義なら――あなたは殿下の剣ではなく、群衆の棒ですわね」
ガウェインの眼差しが燃えた。怒り。だが、それでも彼は手を出さない。軍人の規律が彼を縛る。
ただ、拳が一度だけ強く握られた。爪が革手袋に食い込む音が小さく鳴る。
(揺れた。怒りだけじゃない。自分の言葉に、刺さった)
「言葉に気をつけろ、公爵令嬢」
「気をつけておりますわ。――だから、事実をください」
沈黙が落ちた。
外で風が鳴り、詰所の窓がかすかに震える。
私は、最後の一つを投げた。
「夜の祈祷が終わる頃。そこに至るまでの間、巡回は何人で回っていたの」
「二班だ。門番と内巡回。……だが、祈祷の間は人の動きが増える。全員を一枚の記録に収めるのは無理だ」
「無理、ね」
私は微笑む。悪役の微笑みで。
「つまり犯人は“無理”の隙間を選べばいい。鐘と祈りの間に。――そして、記録の外に」
ガウェインが舌打ちをした。
「公爵令嬢。証拠が出なければ、お前も終わるぞ」
私は立ち上がり、扉へ向かった。振り返らない。
「終わりませんわ」
言葉に力を込める。自分に言い聞かせるように。
「鐘が鳴る前に、あなた方の“結末”を壊します」
◇
廊下の窓から鐘楼が見えた。灰色の空に、重い鐘がぶら下がっている。
あれが、この世界の時間。
そして、犯人の味方でもある。
(曖昧な時間は、凶器を消す猶予になる。氷が溶けて消えるまでの猶予に)
氷が溶ける時間。
人が集まる時間。
鐘が鳴るまでの時間。
私は歩きながら、頭の中で鐘を数えた。
鐘は、鳴れば皆が動く。
鳴らなければ、誰も正確には語れない。
だから――私は“鳴らす側”を押さえる。
鐘楼当番。巡回表。交代の癖。祈祷の長さ。
曖昧な時間を、規律の継ぎ目から縫い止めていく。
時間は曖昧だ。だからこそ、犯人は笑う。
なら、笑わせない。
私は夜へ踏み込んだ。明朝という刃が、喉元に触れているのを感じながら。
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