第七話:鐘が刻む、曖昧な夜

 ――次は、殺害時間だ。


 氷室、運搬箱、備品札。糸は繋がり始めている。けれど糸を絞るには、“いつ”が要る。いつ凶器が使われ、いつ遺体が冷え、いつ人が集まったのか。


 現場の夜を時刻で縛れなければ、誰も捕まえられない。


 そして私は思い出す。


 この世界には、私が知る「分」「秒」がない。


(時間は鐘と祈りで測る。――なら、まずそれを聞きに行く)



 治安維持を担う近衛騎士、ガウェイン。昨日、祈祷室の扉前で腕を組んでいた男だ。鋼色の髪、顎に刻まれた薄い傷。表情は常に硬い。人を疑うことに慣れすぎた顔。


 詰所は学院の門に近い小さな小屋だった。分厚い扉。窓は狭い。中へ入ると、紙と革と金属の匂いが混じる。壁には巡回表と鐘楼の見取り図、祈祷の時間割。――時計の代わりに、規律が貼られている。


 その規律の端に、乾いた墨で小さく書かれた注意書きがあった。


 「鐘楼当番:ガウェイン班」


(当番……。鐘は勝手に鳴らない。鳴らす人間がいる)


 扉を開けると、ガウェインは机上の文書から目を上げた。視線が私を刺す。


「公爵令嬢。今度は何を壊しに来た」


 第一声がそれ。敵意が、香のように部屋に満ちる。


「壊すのは予定調和だけですわ。――質問に答えて。遺体発見のはいつ頃なの?」


 ガウェインは鼻で笑った。

 彼は椅子にもたれ、腕を組む。


「見つかったのは、夜の祈祷が終わる頃だ」


「夜の祈祷、とは」


「鐘楼の鐘が三度鳴った後、聖堂で短い祈りがある。学内の規律だ。巡回もそれに合わせて動く」


 私は眉を寄せた。


「三度鳴った後、どれくらい?」


 ガウェインは私を見て、わざとらしく息を吐いた。


「……それを聞くか。祈りは祈りだ。長い日も短い日もある。修道士の気分次第だ」


 その瞬間――外で、鐘が一度鳴った。


 低く、重い音。窓硝子がわずかに震え、壁に掛けられた金具が小さく鳴る。詰所の空気が、音に合わせて締まった。


 ガウェインの視線が、反射みたいに壁の巡回表へ走る。腕を組んだまま、指先だけが動く。

 ――癖。規律に縛られた身体の反応。


(鐘が鳴れば動く。鳴らなければ、曖昧になる)


 苛立ちが喉の奥で泡立つ。だが怒れば負けだ。私は笑ってみせる。


「つまり、“祈祷の時間”は正確ではない。鐘も、回数でしか示さない」


「そうだ。時間など庶民には不要だろう」


 庶民の話ではない。捜査の話だ。


 私は机の上の巡回表を指差した。


「では、あなた方の巡回はどう回しているの?」


「鐘だ。鐘が一度鳴れば交代、二度鳴れば祈り、三度鳴れば門限」


 当然のように言う。

 この当然さが、犯人を助ける。


 私は息を吐いた。


(分単位のアリバイ崩しは不可能。つまり――犯行時間は広くなる)


 広い時間は、犯人に優しい。


 私は声を低くした。


「……死亡推定は?」


 ガウェインの目が細くなる。彼は医師でも修道士でもないが、遺体を見慣れた兵の目がある。


「医務室の者が言うには、“冷え方”から見て、発見よりだいぶ前だ。だがそれも曖昧だ。夜は冷える。場所も冷える。……氷魔法で殺されたなら尚更な」


 彼は続けた。


「それと――現場は混乱していた。泣き叫ぶリリア、集まる貴族、怒鳴る教師。誰がいつ来たかなど、全員が勝手なことを言う」


 私は頷いた。そこは想定通りだ。人は自分の都合で時間を作る。


「第一発見者は誰?」


「リリアだ。だが、いつ“見つけた”のかは正確には分からん。叫び声を聞いた者が駆けつけ、さらに人が増え、殿下に伝わった」


「殿下が来たのは?」


「発見されてからしばらく経ってからだ。……と言われている」


 “と言われている”。


 笑いたくなった。笑えないのに。


 私は椅子の背を指先で撫で、問いを変えた。


「ガウェイン。あなたはリリアを疑っているの?」


 ガウェインの顔が動く。ほんの僅か。だが確かに。


「疑わない理由があるのか」


 真っ直ぐな男だ。だから厄介だし、だから使える。


「ちなみに、あなた達の巡回記録に、私の姿はある?」


 ガウェインは一瞬だけ黙った。考えているのではない。質問の意図が読めないのだ。自分の行動記録があるかと聞く人間は普通はいない。


 やがて彼は、机の引き出しから薄い報告書を取り出した。


「巡回記録はまとめてある。……お前の姿は、記録にはない」


 胸の内に、安堵がかすかに灯る。だが同時に、別の恐怖が立ち上がる。


(記録にないから無実、ではない。時間が曖昧なら、記録の外に動ける)


 私は机の上に手を置き、体を少し前に出した。


「ガウェイン。あなたが望む結末は何? 正義の執行? それとも真実?」


 ガウェインの口元が歪む。


「真実など、後からいくらでも飾れる。今必要なのは、秩序だ」


 その言い方が、どこか聞き覚えがあった。

 胸の奥が、冷える。


 同調の心理。秩序のために、誰かを悪にする。


 私は冷たく言った。


「秩序のための犠牲があなたの正義なら――あなたは殿下の剣ではなく、群衆の棒ですわね」


 ガウェインの眼差しが燃えた。怒り。だが、それでも彼は手を出さない。軍人の規律が彼を縛る。

 ただ、拳が一度だけ強く握られた。爪が革手袋に食い込む音が小さく鳴る。


(揺れた。怒りだけじゃない。自分の言葉に、刺さった)


「言葉に気をつけろ、公爵令嬢」


「気をつけておりますわ。――だから、事実をください」


 沈黙が落ちた。

 外で風が鳴り、詰所の窓がかすかに震える。


 私は、最後の一つを投げた。


「夜の祈祷が終わる頃。そこに至るまでの間、巡回は何人で回っていたの」


「二班だ。門番と内巡回。……だが、祈祷の間は人の動きが増える。全員を一枚の記録に収めるのは無理だ」


「無理、ね」


 私は微笑む。悪役の微笑みで。


「つまり犯人は“無理”の隙間を選べばいい。鐘と祈りの間に。――そして、記録の外に」


 ガウェインが舌打ちをした。


「公爵令嬢。証拠が出なければ、お前も終わるぞ」


 私は立ち上がり、扉へ向かった。振り返らない。


「終わりませんわ」


 言葉に力を込める。自分に言い聞かせるように。


「鐘が鳴る前に、あなた方の“結末”を壊します」



 廊下の窓から鐘楼が見えた。灰色の空に、重い鐘がぶら下がっている。


 あれが、この世界の時間。


 そして、犯人の味方でもある。


(曖昧な時間は、凶器を消す猶予になる。氷が溶けて消えるまでの猶予に)


 氷が溶ける時間。

 人が集まる時間。

 鐘が鳴るまでの時間。


 私は歩きながら、頭の中で鐘を数えた。


 鐘は、鳴れば皆が動く。

 鳴らなければ、誰も正確には語れない。


 だから――私は“鳴らす側”を押さえる。


 鐘楼当番。巡回表。交代の癖。祈祷の長さ。

 曖昧な時間を、規律の継ぎ目から縫い止めていく。


 時間は曖昧だ。だからこそ、犯人は笑う。


 なら、笑わせない。


 私は夜へ踏み込んだ。明朝という刃が、喉元に触れているのを感じながら。

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