第六話:空白の行が、口を開く  

 朝の光が、窓硝子を白く磨いていた。


 私はミラに部屋の出入り記録を命じ、手紙束は鍵付きの小箱に収めた。

 例の甘い香りは、まだ薄く残っている。寝具に染みた甘さが、呼吸のたびに思い出させる。昨夜の空白は、私の皮膚の裏側に貼りついたままだ。


(私は証拠を集めている。けれど同時に、私自身が証拠になり得る)


 怖い。


 でもこの恐怖は、叫べば消える種類じゃない。

 飼い慣らすしかない。


 今日の目的は一つ。氷室の“穴”を、人の口から形にすること。



 会計係の執務室は、倉庫棟の二階にあった。

 廊下に近づいた途端、紙とインクの匂いが濃くなる。乾いた酸っぱさ。数字に人生を捧げた部屋の匂いだ。


 扉を叩くと、内側から椅子がきしむ音がした。


「……どなたです」


「ロザリアです。王太子殿下の許可を得ております」


 鍵が外れる。扉が指一本分だけ開き、痩せた男の顔が覗いた。


 会計係ベネディクト。年嵩で、髪は後退し、目が忙しなく動く。指先に薄くインクが染み、爪の間まで黒い。帳簿から逃げられない人間の手だ。


「……公爵令嬢殿。なぜ、私のところへ」


 声がすでに守りに入っている。入っているのは言葉だけじゃない。扉の開き方も、肩の角度も、逃げる準備をしている。


「氷室の出納と備品管理を担っているのはあなたでしょう。氷の持ち出し記録について教えて」


 私は封蝋の書状を机の上に置いた。王太子の紋章が、朝の光を受けて嫌に目立つ。


 ベネディクトの喉が鳴った。獲物が飲み込む音。


「……わ、分かりました。しかし台帳は慎重に扱っていただきたい。記録は学院の秩序を――」


「秩序のために記録があるなら、空白は秩序の敵ですわ」


 私は椅子に腰を下ろし、指先で机を一度叩いた。軽く。けれど逃げ道は作らない強さで。


「台帳を。事件の前夜、氷が持ち出された記録を見せて」


 ベネディクトは棚に背を向けた。背を向けたまま、肩が上下する。小さく息を整えている。

 やがて帳簿を引きずり出し、机へ置いた。分厚い。紙の重みが、人の時間の重みみたいだ。


 彼の指が震えながら、問題の日付を開く。


 ――氷室出納。


 私は一行ずつ目を滑らせた。厨房、医務室、貴族寮。整然とした記録。署名。立会者。

 “きちんとした世界”の顔。


 そして。


 そこに、昨日見たものと同じ“穴”があった。


 用途欄:空白。

 数量:記載あり。

 立会者署名:なし。


 空白なのに、数字だけが生きている。


 私の喉が、無意識に鳴った。


「用途と署名がない。なのに数量はある」


 ベネディクトの顔色がみるみる白くなる。彼は反射みたいに答えた。


「そ、それは……書き忘れで……」


「書き忘れ?」


 私は首を傾げた。ゆっくり、優雅に。相手を追い詰める時ほど、動きは丁寧にする。


「あなたの仕事は“用途を書き忘れないこと”ですわ。氷は贅沢品。用途がない搬出など、あり得ない」


「い、いえ……その……」


 嘘を探している。嘘の材料が足りないから、汗になる。額に浮いた汗が、インクの匂いを薄める。


 私は空白を指先でなぞった。罫線の上を、爪ではなく腹で撫でる。紙がわずかに温かい。人の手を吸った紙だ。


「この氷は、どこへ行ったの」


 ベネディクトの目が泳ぐ。


「……医務室……だと……思います」


「思う?」


 口角が勝手に上がりそうになるのを抑え、私は“悪役令嬢の微笑み”だけ作った。


「あなたは“思う”で数字を扱うの? なら、あなたの帳簿は祈祷書ですわね」


 ベネディクトがひくりと肩を震わせた。机上の羽ペンが転がり、紙に短い黒い線を引く。彼はそれを慌てて隠すようにペンを戻した。


「……公爵令嬢殿、私は――」


「嘘は嫌いですの。事実だけ言いなさい」


 沈黙。


 窓の外で誰かが走っていく足音がした。学院は今、噂と恐怖で忙しい。人の足音まで落ち着きがない。


 ベネディクトは一度、口を開いた。

 けれど出てきたのは言葉ではなく、空気だった。唇の裏で何かを嚙み殺している。


 私はその“嚙み殺し”を待った。急かさない。急かすと、彼は嘘へ逃げる。


 やがてベネディクトが、諦めたように肩を落とした。


「……用途を書けないのです」


「なぜ」


 彼は唇を噛み、ようやく吐き出した。


「……書けば……消される」


 背中が冷えた。


(消される。誰に? いつ? どうやって?)


 喉まで出かけた問いを、私は飲み込んだ。今ここで“誰”を問えば、彼は口を閉ざす。

 代わりに、逃げ場を潰す質問を投げる。


「ばれると困るのは、あなたね。氷を横流ししていた?」


 ベネディクトが跳ねた。刺したのは胸ではなく、財布だ。


「ち、違う! 横流しなど……!」


 否定が早すぎる。だから余計に怪しい。

 彼は言いながら、自分の言葉に自分で怯えた顔をする。否定の声量が大きいほど、部屋の壁が薄く感じるのだろう。


「氷は高値で売れる。宴席のある貴族家、療養中の者、冷たい甘味を欲しがる者。需要はいくらでもある。用途欄を空白にしたくなる理由として、最も自然ですわ」


 ベネディクトは崩れ落ちるように椅子に座り、顔を両手で覆った。


「……や、やめてください……私は……少し、少しだけ……」


 指の隙間から涙が滲んだ。泣けば軽くなると思っている涙。


(横領は横領。でも、殺人とは別)


 ここで感情に乗れば、礼拝堂の群衆と同じになる。

 私は声を冷たく保った。


「あなたが横領したかどうかは、今は主題ではありません」


 ベネディクトが顔を上げる。驚きと安堵が混じる。

 私は、その安堵を潰す。


「私が見たいのは“空白”です。この空白は、あなたの欲でできた穴? それとも、誰かがこの穴を利用した?」


 ベネディクトの瞳が揺れた。恐怖の質が変わる。

 自分の罪ではなく、“もっと大きい何か”を連想した目だ。


「……だ、誰か……?」


「ええ」


 私は頷いた。


「用途が書けない搬出があった。なら氷は運ばれた。氷は溶ける。運ぶなら必ず“箱”が要る」


 私は机に手を置く。指先に力を込めすぎない。相手に「追い詰められている」より、「逃げても無駄」を感じさせるために。


「運搬箱の記録を見せなさい」


 ベネディクトは一瞬、迷った。

 引き出しに手を伸ばし、途中で止める。目が左右に走る。誰かの足音を探す目だ。ここで誰かが入ってきてくれれば、会話を終わらせられる。そう思っている。


 誰も来ない。


 彼は諦めたように引き出しを開け、別の小帳簿を取り出した。備品管理。箱や桶、布、縄。地味なものの管理こそ、こういう男の命綱だ。


 私は頁を捲り、氷の運搬箱の項目を探した。


「氷運搬用木箱……番号……」


 そこに並ぶ数字と記号。貸出先、返却日、点検者。几帳面な字。

 問題の夜の欄を指で押さえる。


「この夜、使用された箱はどれ」


 ベネディクトの指が滑る。


「……こ、これです。箱番号、B-17……」


 数字の隣に、貸出先。


 ――図書館。


 私は顔色を変えなかった。変えた瞬間、彼は防御に入る。


「図書館が氷を?」


 ベネディクトは慌てて首を振る。


「ち、違う! 図書館が氷を使うことは……ほとんど……! ですが、備品の管理上、箱を一時的に――」


 言い訳が長い。長い言い訳は、嘘の飾りだ。


「札は付いたまま?」


「……はい。備品札は基本、外しません。番号がないと戻ってきた時に……」


 私は頷いた。心臓の鼓動が、少しだけ速くなる。


(札が残るなら追える。箱が動けば、誰かの手が動いた証拠になる)


 私は帳簿を閉じた。


「最後の確認。その箱を実際に運んだのは誰?」


 ベネディクトは首を振った。


「し、知りません……私は……帳簿を……」


「知りません、で済むなら世の中は楽ね」


 私は立ち上がり、外套の裾を整える。


「ベネディクト。あなたの罪はあなたの罪として後で精算させます」


 泣きそうな目が上がる。

 私は淡々と言った。


「今は事実を置いてください。用途欄を空白にしたのは、あなた?」


 ベネディクトの肩が落ちた。


「……はい。……空白の搬出は、私が……手続きだけ通しました。氷室長には、これが“正規の搬出”に見えるように……」


「手続きだけ、ね」


 私は目を細めた。


「あなたは穴を知っている。穴を作れる。穴を守れる」


 その言葉に、ベネディクトの顔がさらに白くなる。

 彼は小さく震えながら、かすれ声で言った。


「……公爵令嬢殿。私は……殺してなど……」


「それは、まだ分かりませんわ」


 残酷に聞こえるほど冷たく言い切る。冷たくないと、真実に近づけない。



 廊下へ出ると、空気が軽く感じた。紙の匂いから解放されたからじゃない。

 私の中に一本、糸が増えたからだ。


 用途欄の空白。

 正規に見せかけた搬出。

 運搬箱。備品札。

 そして――図書館。


 窓際で立ち止まり、遠くに見える学院の図書館棟を見た。重厚な石造り。静けさの城。秘密が隠れるには、あまりに都合がいい。


(図書館が、氷)


 ふと、喉の奥に昨日の甘い香りが蘇った。

 眠りを深くする香薬。静かな場所。紙とインク。

 ――人が“都合の悪いもの”を眠らせてしまうには、静けさは便利だ。


 私は唇を吊り上げた。


「……静かな場所ほど、よく燃えるのよ」


 そして胸の奥で、小さく釘を打つ。


(紙は整えられる。記録は消される。でも、消した痕まで消せる者は少ない)


 私は歩き出した。誰かが作った空白の正体を、静けさの中から引きずり出すために。

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