第六話:空白の行が、口を開く
朝の光が、窓硝子を白く磨いていた。
私はミラに部屋の出入り記録を命じ、手紙束は鍵付きの小箱に収めた。
例の甘い香りは、まだ薄く残っている。寝具に染みた甘さが、呼吸のたびに思い出させる。昨夜の空白は、私の皮膚の裏側に貼りついたままだ。
(私は証拠を集めている。けれど同時に、私自身が証拠になり得る)
怖い。
でもこの恐怖は、叫べば消える種類じゃない。
飼い慣らすしかない。
今日の目的は一つ。氷室の“穴”を、人の口から形にすること。
◇
会計係の執務室は、倉庫棟の二階にあった。
廊下に近づいた途端、紙とインクの匂いが濃くなる。乾いた酸っぱさ。数字に人生を捧げた部屋の匂いだ。
扉を叩くと、内側から椅子がきしむ音がした。
「……どなたです」
「ロザリアです。王太子殿下の許可を得ております」
鍵が外れる。扉が指一本分だけ開き、痩せた男の顔が覗いた。
会計係ベネディクト。年嵩で、髪は後退し、目が忙しなく動く。指先に薄くインクが染み、爪の間まで黒い。帳簿から逃げられない人間の手だ。
「……公爵令嬢殿。なぜ、私のところへ」
声がすでに守りに入っている。入っているのは言葉だけじゃない。扉の開き方も、肩の角度も、逃げる準備をしている。
「氷室の出納と備品管理を担っているのはあなたでしょう。氷の持ち出し記録について教えて」
私は封蝋の書状を机の上に置いた。王太子の紋章が、朝の光を受けて嫌に目立つ。
ベネディクトの喉が鳴った。獲物が飲み込む音。
「……わ、分かりました。しかし台帳は慎重に扱っていただきたい。記録は学院の秩序を――」
「秩序のために記録があるなら、空白は秩序の敵ですわ」
私は椅子に腰を下ろし、指先で机を一度叩いた。軽く。けれど逃げ道は作らない強さで。
「台帳を。事件の前夜、氷が持ち出された記録を見せて」
ベネディクトは棚に背を向けた。背を向けたまま、肩が上下する。小さく息を整えている。
やがて帳簿を引きずり出し、机へ置いた。分厚い。紙の重みが、人の時間の重みみたいだ。
彼の指が震えながら、問題の日付を開く。
――氷室出納。
私は一行ずつ目を滑らせた。厨房、医務室、貴族寮。整然とした記録。署名。立会者。
“きちんとした世界”の顔。
そして。
そこに、昨日見たものと同じ“穴”があった。
用途欄:空白。
数量:記載あり。
立会者署名:なし。
空白なのに、数字だけが生きている。
私の喉が、無意識に鳴った。
「用途と署名がない。なのに数量はある」
ベネディクトの顔色がみるみる白くなる。彼は反射みたいに答えた。
「そ、それは……書き忘れで……」
「書き忘れ?」
私は首を傾げた。ゆっくり、優雅に。相手を追い詰める時ほど、動きは丁寧にする。
「あなたの仕事は“用途を書き忘れないこと”ですわ。氷は贅沢品。用途がない搬出など、あり得ない」
「い、いえ……その……」
嘘を探している。嘘の材料が足りないから、汗になる。額に浮いた汗が、インクの匂いを薄める。
私は空白を指先でなぞった。罫線の上を、爪ではなく腹で撫でる。紙がわずかに温かい。人の手を吸った紙だ。
「この氷は、どこへ行ったの」
ベネディクトの目が泳ぐ。
「……医務室……だと……思います」
「思う?」
口角が勝手に上がりそうになるのを抑え、私は“悪役令嬢の微笑み”だけ作った。
「あなたは“思う”で数字を扱うの? なら、あなたの帳簿は祈祷書ですわね」
ベネディクトがひくりと肩を震わせた。机上の羽ペンが転がり、紙に短い黒い線を引く。彼はそれを慌てて隠すようにペンを戻した。
「……公爵令嬢殿、私は――」
「嘘は嫌いですの。事実だけ言いなさい」
沈黙。
窓の外で誰かが走っていく足音がした。学院は今、噂と恐怖で忙しい。人の足音まで落ち着きがない。
ベネディクトは一度、口を開いた。
けれど出てきたのは言葉ではなく、空気だった。唇の裏で何かを嚙み殺している。
私はその“嚙み殺し”を待った。急かさない。急かすと、彼は嘘へ逃げる。
やがてベネディクトが、諦めたように肩を落とした。
「……用途を書けないのです」
「なぜ」
彼は唇を噛み、ようやく吐き出した。
「……書けば……消される」
背中が冷えた。
(消される。誰に? いつ? どうやって?)
喉まで出かけた問いを、私は飲み込んだ。今ここで“誰”を問えば、彼は口を閉ざす。
代わりに、逃げ場を潰す質問を投げる。
「ばれると困るのは、あなたね。氷を横流ししていた?」
ベネディクトが跳ねた。刺したのは胸ではなく、財布だ。
「ち、違う! 横流しなど……!」
否定が早すぎる。だから余計に怪しい。
彼は言いながら、自分の言葉に自分で怯えた顔をする。否定の声量が大きいほど、部屋の壁が薄く感じるのだろう。
「氷は高値で売れる。宴席のある貴族家、療養中の者、冷たい甘味を欲しがる者。需要はいくらでもある。用途欄を空白にしたくなる理由として、最も自然ですわ」
ベネディクトは崩れ落ちるように椅子に座り、顔を両手で覆った。
「……や、やめてください……私は……少し、少しだけ……」
指の隙間から涙が滲んだ。泣けば軽くなると思っている涙。
(横領は横領。でも、殺人とは別)
ここで感情に乗れば、礼拝堂の群衆と同じになる。
私は声を冷たく保った。
「あなたが横領したかどうかは、今は主題ではありません」
ベネディクトが顔を上げる。驚きと安堵が混じる。
私は、その安堵を潰す。
「私が見たいのは“空白”です。この空白は、あなたの欲でできた穴? それとも、誰かがこの穴を利用した?」
ベネディクトの瞳が揺れた。恐怖の質が変わる。
自分の罪ではなく、“もっと大きい何か”を連想した目だ。
「……だ、誰か……?」
「ええ」
私は頷いた。
「用途が書けない搬出があった。なら氷は運ばれた。氷は溶ける。運ぶなら必ず“箱”が要る」
私は机に手を置く。指先に力を込めすぎない。相手に「追い詰められている」より、「逃げても無駄」を感じさせるために。
「運搬箱の記録を見せなさい」
ベネディクトは一瞬、迷った。
引き出しに手を伸ばし、途中で止める。目が左右に走る。誰かの足音を探す目だ。ここで誰かが入ってきてくれれば、会話を終わらせられる。そう思っている。
誰も来ない。
彼は諦めたように引き出しを開け、別の小帳簿を取り出した。備品管理。箱や桶、布、縄。地味なものの管理こそ、こういう男の命綱だ。
私は頁を捲り、氷の運搬箱の項目を探した。
「氷運搬用木箱……番号……」
そこに並ぶ数字と記号。貸出先、返却日、点検者。几帳面な字。
問題の夜の欄を指で押さえる。
「この夜、使用された箱はどれ」
ベネディクトの指が滑る。
「……こ、これです。箱番号、B-17……」
数字の隣に、貸出先。
――図書館。
私は顔色を変えなかった。変えた瞬間、彼は防御に入る。
「図書館が氷を?」
ベネディクトは慌てて首を振る。
「ち、違う! 図書館が氷を使うことは……ほとんど……! ですが、備品の管理上、箱を一時的に――」
言い訳が長い。長い言い訳は、嘘の飾りだ。
「札は付いたまま?」
「……はい。備品札は基本、外しません。番号がないと戻ってきた時に……」
私は頷いた。心臓の鼓動が、少しだけ速くなる。
(札が残るなら追える。箱が動けば、誰かの手が動いた証拠になる)
私は帳簿を閉じた。
「最後の確認。その箱を実際に運んだのは誰?」
ベネディクトは首を振った。
「し、知りません……私は……帳簿を……」
「知りません、で済むなら世の中は楽ね」
私は立ち上がり、外套の裾を整える。
「ベネディクト。あなたの罪はあなたの罪として後で精算させます」
泣きそうな目が上がる。
私は淡々と言った。
「今は事実を置いてください。用途欄を空白にしたのは、あなた?」
ベネディクトの肩が落ちた。
「……はい。……空白の搬出は、私が……手続きだけ通しました。氷室長には、これが“正規の搬出”に見えるように……」
「手続きだけ、ね」
私は目を細めた。
「あなたは穴を知っている。穴を作れる。穴を守れる」
その言葉に、ベネディクトの顔がさらに白くなる。
彼は小さく震えながら、かすれ声で言った。
「……公爵令嬢殿。私は……殺してなど……」
「それは、まだ分かりませんわ」
残酷に聞こえるほど冷たく言い切る。冷たくないと、真実に近づけない。
◇
廊下へ出ると、空気が軽く感じた。紙の匂いから解放されたからじゃない。
私の中に一本、糸が増えたからだ。
用途欄の空白。
正規に見せかけた搬出。
運搬箱。備品札。
そして――図書館。
窓際で立ち止まり、遠くに見える学院の図書館棟を見た。重厚な石造り。静けさの城。秘密が隠れるには、あまりに都合がいい。
(図書館が、氷)
ふと、喉の奥に昨日の甘い香りが蘇った。
眠りを深くする香薬。静かな場所。紙とインク。
――人が“都合の悪いもの”を眠らせてしまうには、静けさは便利だ。
私は唇を吊り上げた。
「……静かな場所ほど、よく燃えるのよ」
そして胸の奥で、小さく釘を打つ。
(紙は整えられる。記録は消される。でも、消した痕まで消せる者は少ない)
私は歩き出した。誰かが作った空白の正体を、静けさの中から引きずり出すために。
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