第五話:私の知らないロザリア
手紙の束を胸に抱えて学園の私室棟へ戻ったとき、夕暮れの光が廊下を血の色に染めていた。
嫌な色だ、と思う。
嫌な匂いだ、とも。
扉を開けた瞬間、鼻腔の奥にふわりと触れたのは、甘い香りだった。花の香ではない。菓子の甘さでもない。舌の裏に薄く残るような、ねっとりとした甘さ。
(……何、この匂い)
ベルツィーゲ家の香はもっと乾いている。樹脂と香木、品よく遠い。これは近い。肌にまとわりつく。息を吸うたび、見えない指が喉を撫でていくみたいだった。
「お帰りなさいませ、お嬢様」
侍女のミラが駆け寄ってきた。黒髪をきっちりまとめた、小柄で機敏な少女。いつもなら真っ直ぐ目を見て微笑むのに、今日は一瞬だけ私の顔色を盗み見て、すぐ視線を逸らした。
「……お嬢様?」
「何かしら」
冷たく返す。冷たくしないと、形が保てない。指先の震えが言葉に移ったら終わりだ。
ミラは口を開きかけ、閉じ、無理に笑った。
「……いえ。お疲れでしょう。お茶とお風呂の支度を――」
「その前に、部屋を見せて」
返事が、僅かに遅れる。
「……はい」
その遅れが、胸の奥を小さく刺した。
私は足音を殺して階段を上がった。ドレスの裾が擦れる音が、妙に大きい。廊下の先、自室の扉の前で、甘い匂いがさらに濃くなる。
鍵は掛かっていた。
掛かっているのに、匂いがする。
ミラが鍵を開ける。扉が軋み、私の部屋が口を開けた。
整っている。完璧に。
寝台の掛け布は寸分の乱れもない。机の上の書類は角が揃い、ペンは定位置。花瓶の向きまで、几帳面に正しい。
(……本編で見た、ロザリアの部屋そのまま)
画面越しに何度も見た“悪役令嬢の私室”。あの美しさだ。誰かの生活の匂いがしない、展示品みたいな整い方。
なのに――違う。
部屋の空気が、私を拒んでいる。ここは私の部屋なのに、私のものではない夜が染みついている。
私はゆっくりと空気を吸った。甘い香りが喉の奥に沈む。頭の奥が鈍く重い。眠気ではない。脳の芯に薄い膜を貼られたみたいな、鈍さ。
「ミラ。この匂い、いつから?」
ミラの肩がぴくりと跳ねた。
「……香り、ですか?」
「とぼけなくていいわ。この部屋のことは私よりあなたの方が詳しいでしょう」
ミラは唇を噛み、視線を床に落とした。
「……昨夜、でした」
「昨夜?」
「はい……お嬢様が……『よく眠れる香薬を焚け』と……」
そこで言葉が途切れる。言ってはいけないことを口にしたみたいに。
私は窓辺へ寄り、カーテンの端を指でつまんだ。布に甘さが染みている。薄い膜みたいに、指先に残る。
(眠れる香薬)
胸の奥がひゅっと縮む。
事件の夜。
私は何をしていた?
思い出そうとした瞬間、頭の中に霧が湧いた。月明かり。銀の燭台。誰かの声。扉の音。断片だけが浮かび、そこから先が繋がらない。
(……待って)
昨夜だけじゃない。
私は、ここへ来る前の記憶はある。就活の画面。深夜のゲーム。礼拝堂で目を開けた瞬間。
そして、ここへ来てからの記憶もある。王子の視線。断罪への異議。リリアの震える声。
でも――その間にいるはずの“ロザリア”の生活が、ない。
礼儀や口調や人間関係の輪郭は流れ込んできた。体が勝手に動く。言葉も勝手に整う。
けれど「いつ」「どこで」「誰と」「何をした」の連続が、まるで薄紙で覆われている。
(……私、ロザリアとしての昨日どころか、“ロザリアの毎日”を知らない)
今まで違和感を覚えなかったのは、礼拝堂の混乱が大きすぎたからだ。生き延びることだけで手いっぱいだったから。
でも今は、違う。
証拠が、部屋の中に落ちている。
私は息を呑み、手のひらを握った。爪が皮膚に食い込み、痛みだけが現実をくれる。
「ミラ。昨夜、私……何時に寝たか覚えている?」
ミラが青ざめる。
「……鐘が……三つ鳴った頃に……」
夜更け。
「その前に、誰か来た?」
ミラが一瞬だけ目を上げ、すぐ逸らした。
「……いえ。誰も……」
その否定は、言葉だけだった。身体が否定していない。
私は名前だけを呼んだ。
「ミラ」
責めない。けれど逃がさない。
ミラの睫毛が震える。
「……お嬢様を疑いたく、ありません」
喉が渇いた。水を飲む余裕なんてない。
「何を見たの」
ミラは震える息を吐き、ようやく言った。
「……昨夜、お嬢様は……外套を羽織って……廊下へ出られました。止めようとしたのですが……『大丈夫』と……」
世界が一瞬、傾いた。
外套。夜。ひとり。
そして私は――その夜の自分を覚えていない。
(……じゃあ、覚えているのは誰?)
“ロザリア”だ。
私が入る前の、この身体の持ち主。事件の前日まで生きていたロザリア。
私は彼女の記憶を持っていない。いや――持たされていない。
胸が、ぎし、と鳴る。
(動機はある)
ロザリアはマリアを嫌っていた。
聖女として愛される彼女が眩しくて? 王子の近くにいるから? それとも、公爵令嬢の誇りを傷つける何かがあった?
理由の温度は分からない。でも「嫌っていた」という設定だけは知っている。
(待って。落ち着いて)
私は視線を室内へ走らせた。
証拠は感情より、ずっと正直だ。
机の上のインク壺。蓋が僅かにずれている。
ペン先が洗われていない。乾いたインクが固まり、先端が少し黒い。
(ここで、誰かが手紙を書いた?)
誰が? 昨夜のロザリアが?
次に棚の前。床の光沢がそこだけ違う。薄く艶がある。水拭きしたような、妙な清潔さ。
私は膝をつき、顔を近づけた。
――水滴の跡。
ぽつり、ぽつり、と小さな丸が連なっている。滴が落ちて乾きかけた痕。冷たいものがここで溶けたみたいに、輪郭が残っている。
指で触れる。乾いている。それでも跡は消えていない。
私は息を吸い、匂いを確かめた。甘い香薬の底に、ほんのわずかな“冷えた水”の匂いが混じっている。
(……氷?)
喉が鳴った。
氷室の台帳の空白。
そして私の部屋の床に残る、水滴の列。
偶然、と言い張るには形が良すぎる。
私は立ち上がり、棚の上を見る。飾りの小箱と香の瓶。整然と並んでいる。何かが置かれていた形跡はないのに、床には水滴だけが残っている。
そこに、もう一つ。
鏡台の引き出しが、ほんの少しだけ噛み合っていない。閉めたつもりで閉まっていない、あの僅かな段差。
私は指先で引き出しを開けた。
中身は整っている。櫛、髪留め、手袋の予備。
――その奥に、見慣れない布切れが挟まっていた。
黒い外套の端布。糸がほつれ、泥が乾いて粉になっている。指でつまむと、粉がさらりと落ち、爪の先に残った。
その瞬間、喉が固まった。
(……外套)
ミラの言葉が、形を持って戻ってくる。
昨夜、私は外套を羽織って出た。
そして――この布は、戻ってきた外套の“証拠”だ。
指先が冷える。心臓の音が耳の奥でうるさい。
(私がやったの? 昨夜の私が? それとも――ロザリアが)
私が転生してからの私は、まだ誰も殺していない。
でも、私が転生する前のロザリアなら?
彼女がマリアを憎み、夜に外套を羽織り、そのまま、何かをした可能性は?
脳裏に浮かぶのは、礼拝堂の群衆の顔だ。
真実など欲しがっていない目。
都合のいい“悪”を求める目。
(次は、私になる)
ぞくりとする。
背中に汗が滲むのに、手の中の布切れだけが冷たい。
ミラが震える声で言った。
「……お嬢様、何か……ありましたか」
私は布切れを握りしめたまま、低く答えた。
「ええ。――嫌なものが見つかったわ」
嫌、では足りない。
私の足元が、少しずつ崩れていく音がする。
でも崩れるわけにはいかない。
私は“裁く側の空気”を壊すと決めた人間だ。ここで自分が空気に潰れたら、すべてが滑稽になる。
私はゆっくりと顔を上げ、ミラを見る。
「ミラ。今日から、この部屋の出入りを記録しなさい。誰がいつ、何のために入ったか」
ミラが目を見開く。
「で、ですが……」
「相手が公爵でも、殿下でも。例外はなし」
言い切ると、ミラの唇が震え、やがて強く結ばれた。
「……承知しました」
忠誠が、決意に変わる瞬間だった。
私は机の上に手紙束を置いた。読まれていない感謝の封筒の山。その中に、ぐしゃぐしゃで空っぽの封筒がひとつ混じっている。握り潰され、内容だけが消えた影の塊。
そして床に残る水滴の輪。
引き出しに隠された外套の欠片。
証拠が揃っていくたびに、私の中の“知らないロザリア”が輪郭を持ち始める。
(……私が追うべき相手は、外にいる犯人だけじゃない)
この身体の前の持ち主。
嫌悪を抱き、行動し、そして何かを隠したかもしれないロザリア。
私は笑った。悪役の笑みで。
笑わなければ喉が震えるからだ。
「……面白いじゃない」
もしロザリアが犯人なら、私は最初から詰んでいる。
でも、詰みだと決めるのは“思い込み”だ。私が一番嫌うもの。
私は布切れをそっと布で包み、机の引き出しの奥へしまった。証拠は、感情より先に守る。
そして、胸の奥で静かに誓う。
私の知らないロザリアが何をしたのか。
それを暴くのは、誰かの断罪じゃない。
――私自身の手で、確かなものだけで。
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