第四話:聖女の影  

 氷室の冷気から解放されても、胸の内の冷たさは抜けなかった。


 台帳の「空白」は、完璧な仕組みに開いた穴だ。穴があるなら、そこを通った“何か”がいる。――問題は、それが人なのか、記録なのか、もっと別のものなのか。


 私は執務室で王太子殿下に報告を済ませ、次の行き先を告げた。


「被害者の周辺を調べますわ」


 アルベルト殿下は机の端に指先を置き、軽く叩いた。癖のような仕草。昨日から何度も見ている。


「マリアの周辺を? 彼女は完璧な優等生で評判もいい。時間の無駄では?」


 声音は冷淡だ。けれど拒む調子ではない。こちらが“動く”こと自体は許す。ただし、結果を出せという意味で。


「評判そのものは無駄です。ですが――評判が“どう作られたか”は無駄ではありません」


 私は椅子に背を預けず、背筋を保ったまま言い切った。


「どれだけ慕われていようと、涙が流れようと、評判は証拠になりませんの。見るべきは事実。金の流れ、手の痕、残された紙片。……人の口は、その次」


 殿下は一瞬だけ目を細め、それから短く頷いた。


「好きにしろ。ただし余計な火種は増やすな」


「火種は既に燃えておりますわ。私がするのは、火の形を見極めることだけ」


 私は立ち上がり、背を向ける。


「……ロザリア」


 殿下の声が追ってきた。


「君は本当に、彼女がやっていないと思っているのか」


 私は足を止めなかった。


「“思う”では裁けません。裁けるのは、確かなものだけですわ」


 あの礼拝堂の熱に戻りたくない。

 戻った瞬間、私はまた誰かを“思い込み”で殺す側になる。



 王都の中央にそびえる大聖堂は、石と光でできた巨大な装置だった。


 高い天井。幾重にも重なるアーチ。ステンドグラスは礼拝堂より落ち着いた色合いで、祈りの言葉が自然に口から出るように空気を整えている。


善意を信じたくなる仕掛けが、見事に組み上げられていた。


 私はフード付きの外套で赤髪を隠し、目立たぬように歩いた。

 公爵令嬢が正面から現れれば、噂が噂を呼ぶ。捜査が“見世物”に変わる。


(……それが一番、厄介)


 施しの場には人がいた。


 腹を空かせた者、病を抱えた者、ただ話を聞いてほしい者。修道士たちがパンと温い粥を配り、列がゆっくり進んでいく。


 そして、必ず名前が出る。


「マリア様がお亡くなりになったんだってね……」

「マリア様は、神の御使いだよ」

「昔、マリア様が手を握ってくださっただけで、泣けてしまって……」


 私は列の端にいる老女に声をかけた。声は柔らかく、顔は見えすぎない距離で。


「マリア様は、よくこちらへ?」


「ええ、ええ。いつもね。銀貨の袋を――いえ、銀貨だけじゃない。毛布も薬草も。あの方は本当に――」


「どなたかと一緒でした?」


 老女が瞬きをする。思い出すために、視線が少し上を向く。


「……修道士様と……それから、いつも書き留めている人が……」


「書き留め?」


「ほら、帳面を持った若い人よ。『本日の施し、何名。何を何つ』って……」


 私は視線を巡らせる。

 配給の手伝いの中に、確かに帳面を抱えた青年がいた。列に背を向け、同じ筆致、同じ速さで淡々と数字を書き込んでいる。人の顔を見ない。数字だけを見る目だ。


(施しを“記録”する人間)


 善意の場に、記録の影がある。

 それ自体は悪じゃない。けれど、記録はいつだって“都合のいい物語”を作れる。


 私は大聖堂の奥へ回り、寄付の管理をする小部屋へ向かった。


 王太子の封蝋がある書状を見せると、修道士は一瞬で青ざめ、道を開けた。封蝋の効き方は、いつだって露骨で気持ちが悪い。


 中から出てきたのは、顔色の良い司祭だった。手入れの行き届いた指。金の指輪。慈悲より先に打算がある手。


「公爵令嬢殿……痛ましいことです。マリア様の死は、王都の光が一つ消えたも同然」


「その光がどれほど眩しかったのか、確かめたいのですわ。寄付の記録はありますの?」


 司祭は上手すぎる微笑みを作った。


「もちろん。寄付台帳はこちらに。マリア様は仲介だけでなく、ご自身でも施しを……」


 差し出された台帳を開く。


 日付。品目。数量。寄付者。受領者。署名。


 ――整いすぎている。


 人が書いた帳面には、迷いが残るものだ。インクが濃くなったり、線が揺れたり、数字を打ち直した跡が残る。善意に限らず、現実には雑味がある。


 けれどこの台帳は、最初から「見せるため」に清書されたみたいに美しかった。


(……ガラス細工)


 私はページを捲り、何日分かを確かめる。

 表現まで揃っている。「施し」「救貧」「慈愛」――同じ語が同じ位置に配置され、感情の揺れがない。


 司祭が誇らしげに言った。


「マリア様は常に人の目に晒される立場でした。だからこそ記録も透明であるべきだと――」


「透明、ね」


 私は台帳から目を離さず呟いた。


「透明というより、割れないように磨き上げた薄いガラスですわ。触れば指紋が付く。だから何度も磨いた」


 司祭の微笑みが一瞬だけ固まる。


「……どういう意味でしょう」


「善行が嘘だと言っているわけではありませんの。ただ、善行の“語られ方”が同じすぎる。皆が同じ言葉で感動し、同じ結論に辿り着く。――そこに作為が混じる余地はあります」


 司祭は言葉を選ぶように、ゆっくり息を吐いた。


「公爵令嬢殿は、ずいぶん冷たいお方だ」


「冷静でなければ、事実は拾えませんわ」


 私は台帳を閉じ、次の問いを投げた。


「寄付の流れを追います。マリア様が“持ち込んだ”品や金は、どこから来たの? 誰が準備し、誰が運び、誰が受け取ったのか。その控えを」


 司祭の目が警戒に染まる。私の問いが、ただの皮肉ではなく“追跡”だと理解したのだ。


「……必要な分は整理してお渡ししましょう。ただ、教会の内部事情は――」


「内部事情が事件に繋がるなら調べます」


 優雅に言い切ると、司祭は背筋を伸ばした。


「……承知しました」


 その声は“承知”ではなく“覚悟”に聞こえた。


(聖女の光の下には影がある。光が強ければ、なおさら)


 そして、その影は――誰かが意図して整えている匂いがする。



 午後。

 私は学院へ戻り、被害者の私物の保管場所へ向かった。


 事件後、遺品は学院の管理下に置かれ、封印されている。

 勝手な持ち出しを防ぐため――という建前。実際は、都合の悪いものが出てくるのを恐れているのだろう。


 近衛の騎士が封を確認し、私に一礼する。


「ロザリア様。殿下の許可は出ています」


「ご苦労さま」


 扉が開く。中は薄暗く、ほのかに香が残っていた。甘すぎない香。人に好かれる匂い。


(……好かれる匂い。便利よね)


 机の上に小箱が三つ、几帳面に並べられている。装飾は控えめ。だが質は良い。

 “誰かに見られて困るものはありません”と言いたげな整え方だった。


 私は一つずつ蓋を開ける。

 髪飾り、祈祷書、手袋。

 どれも使い込まれているのに、汚れが少ない。手入れが行き届きすぎている。


 最後の箱に手をかけた時、胸の奥が微かにざわついた。


 蓋を開けると、そこには手紙が束ねられていた。


 白い封筒がいくつも重なり、細い紐で丁寧に結ばれている。端は揃い、角も潰れていない。


(……感謝の手紙、ね)


 宛名はどれも似た書き方だった。


 「マリア様へ」「至高の聖女マリア様へ」「聖女殿へ」――言葉は違っても、敬意の向きは同じ。差出人の名前も、村の名も、病の名もある。泣きながら書いたのだろうと想像できる文字もある。


 なのに。


 私は封の縁を指先でなぞり、ひとつ取り上げた。

 封蝋は割れていない。紙封は開かれていない。折り返しの糊も、ぴたりとそのままだ。


 別の封筒も。同じ。

 さらに別の封筒も。


 開けた形跡がない。

 読んだ跡がない。

 指の脂も、爪の引っかかりも、角の擦れもない。


(……これ、誰にも読まれていない)


 聖女宛の感謝の手紙なら、普通は違うはずだ。

 忙しくて全部は読めなくても、少なくとも数通は開けた跡が残る。封の端が破れたり、角が少し曲がったり、紙が手に馴染んだりする。


 でも、ここにあるのは――整いすぎた束だった。


 私は紐をほどき、封筒を一枚ずつ確かめていく。

 その途中で、指先が引っかかった。


 紙の感触が、違う。


 束の中に、ひとつだけ“ぐしゃぐしゃ”の封筒が混じっていた。

 角は潰れ、紙は波打ち、折り目が無数に走っている。誰かが手の中で揉み潰し、途中で思い直して戻したような形だ。


 私はそれをそっと持ち上げた。


 軽い。


 口元を見ると、封は乱暴に裂かれていた。丁寧に開けたのではなく、爪で引きちぎった跡。中身は――ない。


 私は封筒の裏側を、光に透かす。

 紙の繊維の上に、丸い圧が残っていた。指ではなく、掌だ。握りしめた時にできる、あの形。


(握り潰した。それから開けた。中身を抜いた)


 ここだけ、扱いがまるで違う。


 感謝の手紙は読まれていない。開けられていない。触られてすらいない。

 それなのに、この一通だけは――怒りか恐怖か、分からない感情で握り潰されている。


 私は息を吐き、封筒の口を覗き込む。

 中に残っていたのは、紙片ではなく、細い繊維のささくれと、糊の欠片だけだった。中身を抜き取る時に、急いで引っ張ったのだろう。


(……これは「感謝」じゃない)


 少なくとも、マリアにとって“感謝として受け取れる内容”ではなかった。


 私はその封筒を机に置き、他の封筒をもう一度見渡した。


 整いすぎた束。

 開けられていない封。

 そして、唯一の例外――握り潰され、内容が消えた封筒。


 綺麗に積まれたものの中に、ひとつだけ残された傷。


 私は口角をわずかに上げた。誰にも見せない、冷たい笑み。


「……不都合は、必ず痕を残しますわ」


 握りしめた跡は、消せない。

 紙が語るのは、言い訳ではなく事実だ。


 私はその封筒を丁寧に拾い上げ、胸元にしまった。


(次は、この封筒の“中身”を探す。誰が書き、何が書かれ、なぜ消されたのか)


 期限が背中を押す。

 けれど今は、焦りよりも確信が勝っていた。


 影は、必ずどこかで実体に繋がっている。

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