第四話:聖女の影
氷室の冷気から解放されても、胸の内の冷たさは抜けなかった。
台帳の「空白」は、完璧な仕組みに開いた穴だ。穴があるなら、そこを通った“何か”がいる。――問題は、それが人なのか、記録なのか、もっと別のものなのか。
私は執務室で王太子殿下に報告を済ませ、次の行き先を告げた。
「被害者の周辺を調べますわ」
アルベルト殿下は机の端に指先を置き、軽く叩いた。癖のような仕草。昨日から何度も見ている。
「マリアの周辺を? 彼女は完璧な優等生で評判もいい。時間の無駄では?」
声音は冷淡だ。けれど拒む調子ではない。こちらが“動く”こと自体は許す。ただし、結果を出せという意味で。
「評判そのものは無駄です。ですが――評判が“どう作られたか”は無駄ではありません」
私は椅子に背を預けず、背筋を保ったまま言い切った。
「どれだけ慕われていようと、涙が流れようと、評判は証拠になりませんの。見るべきは事実。金の流れ、手の痕、残された紙片。……人の口は、その次」
殿下は一瞬だけ目を細め、それから短く頷いた。
「好きにしろ。ただし余計な火種は増やすな」
「火種は既に燃えておりますわ。私がするのは、火の形を見極めることだけ」
私は立ち上がり、背を向ける。
「……ロザリア」
殿下の声が追ってきた。
「君は本当に、彼女がやっていないと思っているのか」
私は足を止めなかった。
「“思う”では裁けません。裁けるのは、確かなものだけですわ」
あの礼拝堂の熱に戻りたくない。
戻った瞬間、私はまた誰かを“思い込み”で殺す側になる。
◇
王都の中央にそびえる大聖堂は、石と光でできた巨大な装置だった。
高い天井。幾重にも重なるアーチ。ステンドグラスは礼拝堂より落ち着いた色合いで、祈りの言葉が自然に口から出るように空気を整えている。
善意を信じたくなる仕掛けが、見事に組み上げられていた。
私はフード付きの外套で赤髪を隠し、目立たぬように歩いた。
公爵令嬢が正面から現れれば、噂が噂を呼ぶ。捜査が“見世物”に変わる。
(……それが一番、厄介)
施しの場には人がいた。
腹を空かせた者、病を抱えた者、ただ話を聞いてほしい者。修道士たちがパンと温い粥を配り、列がゆっくり進んでいく。
そして、必ず名前が出る。
「マリア様がお亡くなりになったんだってね……」
「マリア様は、神の御使いだよ」
「昔、マリア様が手を握ってくださっただけで、泣けてしまって……」
私は列の端にいる老女に声をかけた。声は柔らかく、顔は見えすぎない距離で。
「マリア様は、よくこちらへ?」
「ええ、ええ。いつもね。銀貨の袋を――いえ、銀貨だけじゃない。毛布も薬草も。あの方は本当に――」
「どなたかと一緒でした?」
老女が瞬きをする。思い出すために、視線が少し上を向く。
「……修道士様と……それから、いつも書き留めている人が……」
「書き留め?」
「ほら、帳面を持った若い人よ。『本日の施し、何名。何を何つ』って……」
私は視線を巡らせる。
配給の手伝いの中に、確かに帳面を抱えた青年がいた。列に背を向け、同じ筆致、同じ速さで淡々と数字を書き込んでいる。人の顔を見ない。数字だけを見る目だ。
(施しを“記録”する人間)
善意の場に、記録の影がある。
それ自体は悪じゃない。けれど、記録はいつだって“都合のいい物語”を作れる。
私は大聖堂の奥へ回り、寄付の管理をする小部屋へ向かった。
王太子の封蝋がある書状を見せると、修道士は一瞬で青ざめ、道を開けた。封蝋の効き方は、いつだって露骨で気持ちが悪い。
中から出てきたのは、顔色の良い司祭だった。手入れの行き届いた指。金の指輪。慈悲より先に打算がある手。
「公爵令嬢殿……痛ましいことです。マリア様の死は、王都の光が一つ消えたも同然」
「その光がどれほど眩しかったのか、確かめたいのですわ。寄付の記録はありますの?」
司祭は上手すぎる微笑みを作った。
「もちろん。寄付台帳はこちらに。マリア様は仲介だけでなく、ご自身でも施しを……」
差し出された台帳を開く。
日付。品目。数量。寄付者。受領者。署名。
――整いすぎている。
人が書いた帳面には、迷いが残るものだ。インクが濃くなったり、線が揺れたり、数字を打ち直した跡が残る。善意に限らず、現実には雑味がある。
けれどこの台帳は、最初から「見せるため」に清書されたみたいに美しかった。
(……ガラス細工)
私はページを捲り、何日分かを確かめる。
表現まで揃っている。「施し」「救貧」「慈愛」――同じ語が同じ位置に配置され、感情の揺れがない。
司祭が誇らしげに言った。
「マリア様は常に人の目に晒される立場でした。だからこそ記録も透明であるべきだと――」
「透明、ね」
私は台帳から目を離さず呟いた。
「透明というより、割れないように磨き上げた薄いガラスですわ。触れば指紋が付く。だから何度も磨いた」
司祭の微笑みが一瞬だけ固まる。
「……どういう意味でしょう」
「善行が嘘だと言っているわけではありませんの。ただ、善行の“語られ方”が同じすぎる。皆が同じ言葉で感動し、同じ結論に辿り着く。――そこに作為が混じる余地はあります」
司祭は言葉を選ぶように、ゆっくり息を吐いた。
「公爵令嬢殿は、ずいぶん冷たいお方だ」
「冷静でなければ、事実は拾えませんわ」
私は台帳を閉じ、次の問いを投げた。
「寄付の流れを追います。マリア様が“持ち込んだ”品や金は、どこから来たの? 誰が準備し、誰が運び、誰が受け取ったのか。その控えを」
司祭の目が警戒に染まる。私の問いが、ただの皮肉ではなく“追跡”だと理解したのだ。
「……必要な分は整理してお渡ししましょう。ただ、教会の内部事情は――」
「内部事情が事件に繋がるなら調べます」
優雅に言い切ると、司祭は背筋を伸ばした。
「……承知しました」
その声は“承知”ではなく“覚悟”に聞こえた。
(聖女の光の下には影がある。光が強ければ、なおさら)
そして、その影は――誰かが意図して整えている匂いがする。
◇
午後。
私は学院へ戻り、被害者の私物の保管場所へ向かった。
事件後、遺品は学院の管理下に置かれ、封印されている。
勝手な持ち出しを防ぐため――という建前。実際は、都合の悪いものが出てくるのを恐れているのだろう。
近衛の騎士が封を確認し、私に一礼する。
「ロザリア様。殿下の許可は出ています」
「ご苦労さま」
扉が開く。中は薄暗く、ほのかに香が残っていた。甘すぎない香。人に好かれる匂い。
(……好かれる匂い。便利よね)
机の上に小箱が三つ、几帳面に並べられている。装飾は控えめ。だが質は良い。
“誰かに見られて困るものはありません”と言いたげな整え方だった。
私は一つずつ蓋を開ける。
髪飾り、祈祷書、手袋。
どれも使い込まれているのに、汚れが少ない。手入れが行き届きすぎている。
最後の箱に手をかけた時、胸の奥が微かにざわついた。
蓋を開けると、そこには手紙が束ねられていた。
白い封筒がいくつも重なり、細い紐で丁寧に結ばれている。端は揃い、角も潰れていない。
(……感謝の手紙、ね)
宛名はどれも似た書き方だった。
「マリア様へ」「至高の聖女マリア様へ」「聖女殿へ」――言葉は違っても、敬意の向きは同じ。差出人の名前も、村の名も、病の名もある。泣きながら書いたのだろうと想像できる文字もある。
なのに。
私は封の縁を指先でなぞり、ひとつ取り上げた。
封蝋は割れていない。紙封は開かれていない。折り返しの糊も、ぴたりとそのままだ。
別の封筒も。同じ。
さらに別の封筒も。
開けた形跡がない。
読んだ跡がない。
指の脂も、爪の引っかかりも、角の擦れもない。
(……これ、誰にも読まれていない)
聖女宛の感謝の手紙なら、普通は違うはずだ。
忙しくて全部は読めなくても、少なくとも数通は開けた跡が残る。封の端が破れたり、角が少し曲がったり、紙が手に馴染んだりする。
でも、ここにあるのは――整いすぎた束だった。
私は紐をほどき、封筒を一枚ずつ確かめていく。
その途中で、指先が引っかかった。
紙の感触が、違う。
束の中に、ひとつだけ“ぐしゃぐしゃ”の封筒が混じっていた。
角は潰れ、紙は波打ち、折り目が無数に走っている。誰かが手の中で揉み潰し、途中で思い直して戻したような形だ。
私はそれをそっと持ち上げた。
軽い。
口元を見ると、封は乱暴に裂かれていた。丁寧に開けたのではなく、爪で引きちぎった跡。中身は――ない。
私は封筒の裏側を、光に透かす。
紙の繊維の上に、丸い圧が残っていた。指ではなく、掌だ。握りしめた時にできる、あの形。
(握り潰した。それから開けた。中身を抜いた)
ここだけ、扱いがまるで違う。
感謝の手紙は読まれていない。開けられていない。触られてすらいない。
それなのに、この一通だけは――怒りか恐怖か、分からない感情で握り潰されている。
私は息を吐き、封筒の口を覗き込む。
中に残っていたのは、紙片ではなく、細い繊維のささくれと、糊の欠片だけだった。中身を抜き取る時に、急いで引っ張ったのだろう。
(……これは「感謝」じゃない)
少なくとも、マリアにとって“感謝として受け取れる内容”ではなかった。
私はその封筒を机に置き、他の封筒をもう一度見渡した。
整いすぎた束。
開けられていない封。
そして、唯一の例外――握り潰され、内容が消えた封筒。
綺麗に積まれたものの中に、ひとつだけ残された傷。
私は口角をわずかに上げた。誰にも見せない、冷たい笑み。
「……不都合は、必ず痕を残しますわ」
握りしめた跡は、消せない。
紙が語るのは、言い訳ではなく事実だ。
私はその封筒を丁寧に拾い上げ、胸元にしまった。
(次は、この封筒の“中身”を探す。誰が書き、何が書かれ、なぜ消されたのか)
期限が背中を押す。
けれど今は、焦りよりも確信が勝っていた。
影は、必ずどこかで実体に繋がっている。
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