第三話:空白の行
学院の鐘が二度鳴る前。
廊下の窓から差す光はまだ薄く、石床の冷たさが靴底からじわじわ伝わってくる。
礼拝堂の熱は消えたはずなのに、学院全体が妙に落ち着かない。誰もが言葉を飲み込み、代わりに視線を投げてくる。
(……私の背中に「余計なことをした」って札でも貼りたいのね)
ドレスの裾を軽く摘み、歩幅を崩さない。
ドレスは重い。けれど、重いからこそ倒れない。
近衛の騎士が扉を開けた。
「公爵令嬢様。殿下がお待ちです」
王立学院の執務室。
いかにも“裁く側”が座るための部屋だった。高い書棚、分厚い机、窓際には国章の入った旗。空気まで硬い。
その机の向こうで、アルベルト王子が書類に目を落としていた。
礼拝堂の時と同じ冷たい目。けれど、わずかに疲れが滲んでいる。まばたきが少ない。肩の線が微妙に固い。
私が一礼すると、王子は顔を上げずに言った。
「ロザリア。次を聞かせろ」
単刀直入。余白を許さない声。
私は椅子に腰を下ろし、言葉を選びすぎないようにした。迷いは、相手に嗅ぎ取られる。
「次は三つ。氷室への立ち入り。管理台帳の閲覧。関係者への聴取ですわ」
王子のペンが止まった。
「……氷室?」
彼は言った。「封鎖した」と。
今、その封鎖に触れた途端、部屋の空気がほんの少しだけ締まる。
「先ほど、リリアから聞きました。姉君を見つけたのは氷室の裏。つまり、事件が生まれたのは学院の“冷たい場所”です」
「死体は外で見つかった。氷室は食料庫の一部に過ぎない」
「ええ。だからこそですわ」
私は机に指先を置く。鼓動の音を、言葉の奥に沈める。
「殿下は“氷の痕跡”を根拠に断罪を始めた。ならば氷が日常的に存在する場所を調べずに結論へ向かうのは、筋が通りません」
王子の視線が上がる。氷みたいに冷たい目が私を測る。
「氷室に何があると?」
「断言はできません。ただ、舞台なら舞台装置のルールを押さえなければ推理はできませんの」
「推理、ね」
王子は短く笑った。侮りではなく、試す音。
「君は猶予を求めた。だが猶予は無制限じゃない。王家の威信も、学院の秩序も、遊び道具ではない」
「遊んでなどおりません」
私は笑わない。ここで笑うと、悪役令嬢の“余裕”ではなく、ただの軽薄に見える。
「威信を守るために誤った裁きを下すほうが、よほど危険ですわ」
王子の眉が、ごく僅かに動いた。怒りではない。痛みの反応に見えた。
沈黙が落ちる。
窓の外で小鳥が鳴き、すぐ黙った。まるで空気を読んだみたいに。
「……ならば問う」
王子は指輪を指先でひとなでしてから言った。いつもの癖。けれど今日のその動きは、ほんの少しだけ速い。
「君に何を与えれば、結果が出る?」
与える。
その言い方が好きじゃない。与えられて動くのは、駒だ。
「“与える”のではなく、“取り決める”のです。調査のルールを」
私は一つずつ置く。数を増やしすぎない。相手が飲める形に整える。
「第一に、氷室への立ち入り許可。第二に、鍵と台帳の閲覧。第三に、関係者の聴取。……そして、現場に手を入れるなら私にも知らせること」
王子が目を細めた。
「現場に手を入れる?」
「証拠は荒れます。荒れた後に“整合性”だけで裁くのは、昨日の礼拝堂と同じですわ」
王子の指が一瞬止まる。指輪から離れ、机の端を二度叩いた。
「……君は遠回しに、私を疑っているのか」
「殿下」
私は声を落とし、丁寧に言う。
「私は“誰か”を疑うために動いているのではありません。“曖昧”を潰すために動きますの。裁くべき人間は、証拠が決める」
王子はしばらく黙り、それから淡々と告げた。
「三日だ」
胸の奥がひゅっと縮む。
「三日後、王都から監察官が来る。それまでに“彼女が姉君を害していない証拠”を示せ。示せなければ、リリアを犯人として扱う。異論は?」
「ありませんわ」
私は笑みの形だけ作った。高貴で、冷たい、悪役の笑み。
「三日もあれば十分。殿下の婚約者が飾りではないと証明して差し上げます」
王子は引き出しから封蝋を取り出し、短い書状を書いた。紋章が押される。蝋の匂いが妙に生々しい。
「これを持って行け。氷室、台帳、聴取――許可する」
封書が掌に落ちた瞬間、重さが現実になる。
(権利じゃない。縄だ。三日で走れという縄)
でも縄なら、切れる。切る刃は、拾えるだけ拾う。
私が立ち上がると、王子がひとつだけ言い添えた。
「……君の目的は何だ」
扉の前で振り返る。
「誰かに決められた筋書きが嫌いなだけですわ」
半分は嘘。半分は本当。
「真実が曖昧なまま、誰かの都合で物語が終わるのが――我慢ならないのです」
王子の視線が、ほんの少しだけ柔らいだ気がした。気のせいかもしれない。けれど、今はそれで十分だった。
◇
氷室は学院の北端、日当たりの悪い場所に建てられていた。
厚い石壁。小さな換気孔。扉の前には警備の詰所。
宝物庫みたいだ。――実際、宝物なのだろう。夏に氷を口にできる者は限られる。氷は贅沢で、同時に権力の匂いがする。
案内役は白髪混じりの男だった。背筋が伸び、靴音が無駄に響かない。職務が骨に染みついた人間の立ち姿。
「氷室長のグレゴールでございます。……殿下の書状、確かに拝見しました」
封蝋を見ると、彼は息を呑み、すぐに姿勢を正した。
「こちらへ。ただし氷室は規則が厳しゅうございます。勝手は――」
「規則を知るために来たのですわ。遠慮なく説明して頂戴」
グレゴールは頷き、扉脇の木箱を開けた。
中には鍵が二本。形は似ているが、輪に付いた札が違う。
一本は「氷室」。もう一本は「台帳庫」。
「鍵は二重管理です。氷室の鍵は私。台帳庫の鍵は会計係が保管。開閉の際は必ず二名以上が立ち会い、記録を残します」
誇らしげな声。完璧であることが、この人の誇りだ。
「氷は魔法で作るの?」
私が尋ねると、彼は首を横に振った。
「食用は普通の水を凍らせたものです。冷却の魔術で室内を保ち、型に流した水を自然に凍らせます。……魔力で生み出す氷は水ではなく魔力。口にするには向きませぬ」
魔法が万能じゃないから、仕組みが生まれる。
仕組みがあるから、穴も生まれる。
扉が開くと、冷気が頬を叩いた。吐く息が白い。
半地下の室内。棚に整然と積まれた氷。粗い敷石。壁際には小さな魔術具が並び、一定の冷気を吐き続けている。
「搬出量、生成量、魔術具の点検――すべて台帳に記録します」
グレゴールが奥の扉を指す。
「台帳庫はこちら。会計係を呼んで参ります」
やがて現れた若い会計係は、目の下に影を作っていた。帳簿に生活を吸われている顔だ。
「会計係のエドガーです。殿下のご命令とあれば……」
二人が立ち会い、台帳庫が開かれる。
乾いた紙の匂い。棚に並ぶ帳簿。中央の机に分厚い台帳。「氷室出納」と刻まれた背表紙。
私は台帳を開き、ページを捲った。
文字は几帳面。数字も整っている。整いすぎるほどに。
(これなら“外の人間”は入れない。そう思わせるのに十分だわ)
事件の夜の日付へ辿り着く。
午前:厨房へ氷〇〇枚。
午後:医務室へ氷〇〇枚。
夕刻:貴族寮へ氷〇〇枚。署名あり。
そして、その下。
――一行だけ、空白があった。
罫線に沿って、きちんと“書く場所”だけが残されている。用途も数量も署名もない。そこだけ息を止めたみたいに。
エドガーの顔色が変わった。
「……え?」
声が掠れる。彼は台帳を覗き込み、指先で空白をなぞった。震えが、ほんのわずかに出る。
「……おかしい。こんな、はず……」
グレゴールも覗き込み、目を見開いた。
「台帳は……毎回、必ず……」
空白の前後は整っている。だからこそ穴が目立つ。
汚れでも破れでもない。“意図のない空白”ではない。
私は平静を装い、紙の表面をそっと指で確かめる。
削った痕はない。滲みもない。書いて消した形跡もない。
(書かなかった、のね。書けなかったのか、書くつもりがなかったのか)
エドガーが焦ったようにページを前後させ、在庫数を追う。口の中で数字が動く。
「……合わない……いや、合ってる……? ……こ、ここだけが……」
完璧であることに誇りを持つ人間が、完璧でいられなくなる瞬間。
グレゴールが喉を鳴らした。
「氷室の鍵は……私が……。夜間は基本、開けません。開けるなら必ず、立会いと記録を……」
言い訳ではない。職務への誇りが崩れる音だ。
私は台帳を閉じ、二人を見た。
「動揺しなくて結構ですわ。私はあなた方を責めに来たわけではありません」
むしろ、この空白は――入口。
「完璧な仕組みに穴があるなら、その穴を通った者がいます。誰かが、仕組みの上を歩いた」
二人が息を呑む。
私は穏やかに微笑んだ。悪役令嬢の微笑みで。
「質問ですわ」
声は柔らかく。内容は逃がさない。
「この空白の時間帯、あなた方はどこにいたの? そして――“立会い”は、なぜ成立しなかったの?」
エドガーの喉がひゅっと鳴った。
「……そ、それは……」
言葉が出ない。
沈黙が、何より雄弁だった。
私は台帳を抱え直し、氷室の外の冷たい空気を吸い込む。
(見つけた。完璧な管理の、たった一つの穴)
たった一行の空白が、三日という期限よりも恐ろしい速さで状況を動かし始めている気がした。
――次に動くべきは、記録ではない。人間だ。
私は踵を返す。
「殿下に報告します。そして今日中に、口を開くべき人を見つけますわ」
氷室の冷気は肌を刺す。
でも今の私には、それがちょうどいい。
真実に近づくには、冷たくならなければならない時がある。
それが救いになるなら、なおさら。
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