第二話:扉の外は、冷たい
礼拝堂を出た瞬間、空気が変わった。
あの場を満たしていた熱狂は、扉一枚でぷつりと切れる。廊下に残っていたのは、香の煙と、冷えた石壁の匂い。そして、背中に突き刺さる視線だった。
(……そりゃそうよね。私は今、「庇った側」だもの)
ドレスの裾を軽く摘んで歩幅を整える。足が震えそうになるのを、布の重みで押し込めた。慣れない装いが、今日は鎧になる。
「公爵令嬢様」
近衛の騎士が進路に滑り込み、頭を下げる。丁寧。でも退路は作らない立ち方だ。礼儀の形をした拘束。
「殿下がお待ちです」
「……案内して」
声が裏返らなかっただけ上出来、と自分に言い聞かせた。
◇
控えの間には、アルベルト王子が一人でいた。
礼拝堂で「正義」を纏っていたそのままの顔で、椅子に深く腰掛けている。私が入ると視線だけが動いた。氷みたいに整った目元。
そして例の癖。
指輪を指先でひとなでしてから、低い声を落とす。
「話は終わったはずだ、ロザリア」
怒っているのではない。面倒を見ている声だ。罪人に猶予を与える側の、退屈の声。
「終わってなどおりませんわ。殿下が“終わらせたい”だけです」
「……君は自分の立場が分かっているのか」
「ええ。分かっております。だからこそ、ここで止まれませんの」
王子は一拍置き、机の端を軽く叩いた。
「最適解は、さっきの場で君が頷くことだった」
「殿下は、人の罪を“最適”かどうかで判断するのね?」
私が刺すと、王子は眉ひとつ動かさない。
「言葉遊びはいい。君が動けば、盤面が荒れる。余計なリスクが増える」
私は淡々と返す。
「荒れた盤面を整えるのが、王太子の仕事では?」
「整えるのは私だ。君は、余計なことをしない」
王子は立ち上がり、扉へ顎をしゃくる。
「だが、君はもう口にした。後戻りはできない。ならば証明しろ。時間は多くない」
そう言って、もう一度だけ指輪を撫でる。
あの仕草を見るたび、私は「何かを確かめている」気がしてならなかった。
「彼女から話を聞きますわ」
「許可する。ただし監視は付ける。余計な接触も、逃亡の手助けもさせない」
「当然です。私が欲しいのは真実だけ」
口にした瞬間、胸の奥がひりついた。
(真実。簡単に言うけど、私が外せば彼女は死ぬ。私も終わる)
王子は私を通す前に、低く言い置いた。
「あと、現場付近は封鎖した。勝手に入るなよ」
「封鎖?」
「勝手に入れば、証拠が荒れる」
私は笑みの形だけ作る。
「承知しましたわ。ですが“封鎖”は、守るためのものよ。隠すためのものではなくて」
王子の目が、ほんのわずかに細まった。
◇
リリアが押し込められていたのは、学院の一角にある小さな祈祷室だった。
牢屋ではない。けれど窓は高く、扉は厚い。白い壁に描かれた聖印は、守りというより「ここから出るな」と命じる印に見えた。
中には痩せた修道女が一人付き添い、リリアは祈りの椅子に座らされている。膝の上で指が絡み、ほどけて、また絡む。落ち着きたいのに落ち着けない手だ。
私が入ると、リリアはびくりと肩を跳ねさせた。涙で腫れた目が私を見て固まる。
「……ロ、ロザリア様」
「呼び捨てでもよろしくてよ。どうせあなたは私を嫌っているでしょう?」
わざと刺す。
私が“ロザリア”としてここにいると示すための棘。
リリアは首を横に振った。必死すぎて、痛々しい。
「ち、違います……」
「そう?なら良かった」
私は修道女へ視線を向ける。
「修道女様。少し席を外してくださる?」
「ですが……」
「殿下の許可をいただいております。あなた方が守りたいのは秩序でしょう? なら、真実を掘り起こす邪魔をなさるの?」
修道女は唇を噛み、しぶしぶ扉の外へ下がった。
代わりに近衛の騎士が扉の前で腕を組む。監視は残る。十分だ。
私はリリアの正面に椅子を引いて座る。近すぎない。でも逃げられない距離。
「推測はいりません。あなたが“見たこと”“聞いたこと”“したこと”だけ。順番に。分からないなら分からないと言いなさい」
リリアは小さく頷いた。頷き方が、許しを乞う子どものそれだ。
(本編のリリアは、もう少し芯があった気がするのに)
その違和感を、ひとまず脇へ置く。今は救うための情報が先。
「事件の夜。あなたはどこにいたの?」
「寮の……部屋に。課題を……していて……」
「一人?」
「……はい。最初は」
最初は。
その二文字が、指先の震えと一緒に落ちた。
「その後、どこへ行ったの」
リリアの喉が上下に動く。視線が泳ぎ、壁の聖印に逃げる。
「……お姉様から、呼ばれて……」
「呼ばれた? 口頭? それとも残る形で?」
リリアは息を吸い、押し出すみたいに言った。
「……手紙、でした」
「その手紙は、今どこにあるの」
膝の上で指がぎゅっと握り潰される。
「……分かりません。怖くて……捨てた、のかも……」
曖昧だ。
曖昧さは刃になる。彼女の首に当たる刃。
「分からない、では済みませんわ。覚えてる範囲でいい。手紙は、どんな見た目でした? 封の色は? 紙の触り心地は? 匂いでも良いわ」
リリアが瞬きを繰り返す。
「……匂い……」
彼女は指先を見つめ、恐る恐る言った。
「……乾いた……土みたいな匂いが、少し……。指に……粉がついた気がします」
「いい。続けなさい。呼び出された場所は」
「学院の……氷室の裏にある、小道です。そこは……ひんやりしてて……」
「到着したとき、誰かいた?」
「……いませんでした。でも、扉が……少しだけ開いていて……」
「どの扉」
「……氷室の裏の、物置の扉です。お姉様は、そこに……」
声が詰まる。
彼女の瞳が、祈祷室の白ではなく、別の暗がりを見ている。
「続けなさい」
「……倒れていました。冷たくて……触ったら、手が……」
リリアは自分の両手を見る。触った感触がまだ皮膚に残っているみたいに。
「血は見た?」
「……少しだけ……でも、たくさんは……」
「そして、叫んだのね?」
「……はい。誰か来てくれると思って……」
「来たのは誰?」
「……分かりません。気づいたら人がいっぱいで……殿下も……」
そこで彼女の肩が縮む。叱られる前提の癖が染み付いている。
私は紙とペンを借り、短く書き付けた。
呼び出し:手紙(現物不明/土の匂い、粉の感触)
場所:氷室裏の小道/物置の扉が半開き
発見:倒れている姉/冷たい/血は少ない
第一集合:不明
そして最後に、生活の端の情報を拾う。
「……氷室の裏に呼んだっていうことだけど、あなたのお姉様は、涼しい場所が好きでした?」
リリアの表情が、ほんのわずかに歪んだ。
答えたくない顔だ。
「……嫌い、でした」
「嫌い?」
「……冷たいものは口にしない。冬も……暖める魔術具を、いつも……」
妙に具体的だ。日々の観察の具体さ。敬愛だけじゃない、緊張の混じった具体さ。
(マリアにそんな設定はなかったはず)
違和感が、二つ目に増える。けれど今は、掘り下げない。掘り下げるなら、彼女が生き延びてからだ。
「なぜ嫌いなの?」
リリアの唇が震え、視線が落ちる。
「……それは……言えません……」
怖くて言えない点だけが、やけに輪郭を持つ。
私は息を吐き、背筋を伸ばした。
「リリア。あなたが何を恐れているかは、今は聞きません」
紙を指先で軽く叩く。
「でも覚えておきなさい。あなたが言えない空白は、あなたの首に巻かれる縄になりますわ。切りたいなら、いつか必ず私に渡しなさい。言葉でも、物でも。何でも」
リリアの瞳が揺れる。涙が落ちそうで落ちない。
「……ロザリア様は……どうして……」
私はその問いを、優しさで受け止めない。ここで優しくしたら、彼女は甘える。甘えた瞬間、終わる。
「勘違いしないで。私はあなたを好いていない」
それから、少しだけ声を落とす。
「でも、真実を確かめずに人を断罪する結末は、私の趣味じゃありませんの」
強がりで、本音だった。
扉の外で騎士が咳払いをした。長居は許されない合図。
私は立ち上がり、リリアを最後に見下ろす。
「今夜は休みなさい。泣くなら泣いてもいい」
一拍置く。
「ただし明日、生きるために何ができるか考えなさい」
リリアは小さく、何度も頷いた。
「……はい……」
◇
祈祷室を出ると、廊下の冷気が頬を撫でた。
歩きながら、頭の中で“確かなこと”と“確かでないこと”を並べ替える。
確かなこと。
呼び出しは手紙。現物の所在は不明。
土の匂い。指先に残る粉。
場所は氷室裏。物置の扉は半開き。
姉は冷たかった。血は少なかった。
そして、姉は寒さを嫌っていた。
(寒さを嫌う人間が、氷室の裏で、冷たい死に方をする)
偶然ではない匂いがする。
意図がある。誰かが、そこへ連れていった。
廊下の窓から中庭が見えた。その向こう、白い石造りの施設が月明かりを受けて沈黙している。氷を保管するための建物。
(次は、あそこ。でも、殿下は“封鎖”と言った)
背後から足音が近づく。近衛の騎士だ。
「ロザリア様。殿下がお呼びです。『次の一手を聞かせろ』と」
時間が、また首を締めに来る。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます