其の二 請以剣舞

 鴻門での宴会が始まった。

 宴会に参加したのは、項王と沛公の他、項王の叔父である項伯こうはく、項王の軍師である范増はんぞう、沛公の軍師である張良ちょうりょうである。


 項王と項伯は東を向いて座り、范増は南を向いて座る。

 沛公は北を向いて座り、張良は南を向いて座る。


 静かな宴会であった。誰かが盃を啜る音だけが夜に響いている。

 其の中、范増は何度か項王に目配せを送る。それに加えて、戦いの意思を示す合図として腰にある玉玦ぎょっけつを上げた。彼は、沛公の暗殺を試みていた。

 しかし、項王は応じない。三度にわたる合図を無視し、黙っている。


「少し、失礼。」

 范増が、ふと立ち上がり宴会場の外へ出る。そして、部下である項荘こうそうを呼び出した。

「范増様。宴会は盛り上がっておりますか?沛公とは敵同士ですが、酒宴の場なので今はそんなことを忘れ」

「殺せ。」

 范増は、そう言い放った。項荘の表情が固まる。

「え………?」

「お前が沛公を殺せ。項王のお人柄ではあいつを殺せない。残酷なことができないのだ。宴会の場に乱入して、沛公の目の前で健康を祈る挨拶をしろ。祈りが終わったら、剣舞を願い出るのだ。剣を持って舞い、座っている沛公を刺し殺すんだ。」

「で、でも………」

「もしできなければ、お前たちの一族は沛公の捕虜とされてしまうのだぞ?………やれ。絶対に成功させろ。」

 項荘に、選択肢はなかった。宴会場へ戻っていく范増の背中を、震える足で追いかけた。


「初めまして、項荘と申します。今、沛公殿の長寿の祈りを捧げましょう。」

「ああ………」

 祈りを終え、項荘は腰の刀に手をかけた。

「そして………項王様。私は軍人であるため音楽は奏でられませんが………あなたは沛公殿と同じ場で酒を交わしておられる。剣舞を舞うことをお許しください。よろしいでしょうか?」

「………ああ、許す。」

 一族の、為。項荘の決意は固まっていたが、其の手はまだ震えていた。項荘の顔に大粒の汗が滲み出ていることに気づいた沛公は、身構えた。これは、興では無い。このままだと沛公は、殺される。

 はずだった。


「では、私も舞わせてください。」

 項王の隣に座っていた項伯が、そう願い出たのだ。

「いいだろう。二人で舞ってみろ。」

 項王は、あくまで余興を楽しむような姿勢だ。項王の許しを得た二人は、剣を片手に舞い始める。項荘は、何度か沛公の暗殺を試みたが、項伯に阻まれて攻撃ができない。項伯は、沛公を身を以て守ろうとしたのだ。


「………なぜですか、項伯様。」

 項伯にしか聞こえないであろう小さな声で、項荘は尋ねた。

「………張良に借りがあるのだ。沛公は殺させない。」

 それだけ言って、項伯は舞い続ける。ちらりと、何かを察したような表情を浮かべる張良を横目で見ながら。昔、人殺しの罪によって逃亡していた項伯を、張良は匿った。その恩義を、彼は忘れていなかった。


「あの、外の空気を少々吸って参ります。」

 次に、張良が立ち上がった。項伯の思いを理解した張良は、外に出る前に彼に向かって小さく頭を下げた。それを見た項伯は、微笑を浮かべ剣舞に戻った。



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