史記 鴻門之会

蒔文歩

其の一 至鴻門

 紀元前206年。

 秦の皇帝、始皇帝の死後。中国国内では、次期皇帝の座を巡って反乱が起こっていた。反乱軍の占領地は秦の都である咸陽かんようにまで迫り、軍の長である懐王かいおうは言った。


「先に咸陽を制圧した者を、次の王とする。」


 その言葉に動かされた多くの者が、秦を討ち取ろうと鎬を削る。其の中の二人が、項王こうおう沛公はいこうである。「項王」とは、項羽こううのこと、「沛公」とは、劉邦りゅうほうのことだ。


 項王は北側から、沛公は南側から関中を攻める。先に咸陽を陥落させたのは、沛公の軍だった。沛公は関を守り固め、それが誤解を呼んだ。


「沛公様は、項王を出し抜いて、新たな皇帝となろうとしている。」

 

 沛公軍の配下である軍人、曹無傷そうむしょうからの密告に、項王は怒りを覚える。そして、沛公と戦う意思を顕にした。


 この物語は、項王が沛公の軍を攻撃しようと試みる直前の話である。



「沛公様。こんなに多くの軍人を引き連れる必要はあったのでしょうか。」

「そうだな、不覚にも項王を怒らせてしまった………曹無傷め。全ては、あいつが密告したせいだ。」

 沛公は百余騎を従え、項王を説得するために敵地である鴻門を訪れた。何としても和解しなければならない。この状況で戦闘が始まったら、圧倒的不利な立場にある沛公に勝ち目はない。


「……項王様。」

「沛公殿か。」

 項王と顔を合わせた直後、沛公は頭を下げた。

「私は、項王様と共に力を合わせて秦を攻めました。項王様は北で戦い、私は南で戦いましたね。」

 項王の表情は、変わらない。其の目は、獲物を捉えるときのような鋭さを持っている。

「しかし、私の思惑とは裏腹に、私の方が先に関中に攻め入り秦を破って、またここで貴方様と顔を合わせています。」

「………」

「今、つまらない者の発言で、項王様は私たちと再び争う気なのですか?密告者は、このように私と項王様を仲違いさせようとしているのですよ。」

 じっと、沛公は返答を待った。ため息と共に、項王は告げる。

「………密告をしたのは、あなたの部下である曹無傷だ。」

「………!」

「そうでなければ、あなたを私が攻めることもないだろう。」

 空気が張り詰める音がした。その場で付き添っていた両軍の軍人が息を呑む。和解は不可能か。やはり、争いが起こってしまうのか。

 項王は、頭を下げ続ける沛公を眺めた後、虚空を仰いだ。静寂に包まれた世界の中で、彼の深呼吸の音だけが聞こえた。………ここで沛公の首を斬れば終わる。だが、それで天下は収まるのか。葛藤の末、項王は息を吸って………


「………飲むか。」

「………え。」


 ………飲む。酒を?

「………飲む?」

「ああ。どうやら情報の食い違いが起きているようだ。とにかく飲もう。それで、ゆっくり言い訳を聞こうではないか。」

「いやいやいや。」

 項羽の勢いは止まらない。

鴻門こうもんで宴会を開こう。沛公殿、参加してくださるな」

「え………ああ、もちろん。」

 裏があるとしか思えない提案だったが、沛公は受けた。そうするしかなかった。


 ………項王様。一体何を、企んでいる?


 其の意図はついに解らぬまま、鴻門の宴会が始まる。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る