第2話



§



 あの事象を経験して以来、僕はずっと君を描いていた。

 白紙を見るたび、君の輪郭が浮かび上がる。そしてそれを線で引き、実体化させる。まるで白紙は、君を召喚する祭壇のようだった。



 ノートの余白、プリントの裏面、そして自室に積み上がったスケッチブック。

 君の輪郭が浮かると、それが形を成す事なく消えるのが惜しくて、僕は輪郭を目にするたび、どんな状況であろうと君を描いた。



 描けばかくほど君への理解が深まる。

 一度目は形を、二度目は影を、三度目はその奥にある体温を。

 そうやって君を何層にも重ね合わせる事で、リアリティのある、生々しい絵を表現する。



 もちろん、君の観察も続けている。君は情報の宝庫だ。描いた絵と君自身を照らし合わせる事で、間違い探しみたいに僕の絵の足りないところを補完する。



 君という存在は情報の宝庫だった。否、君自体が宝だ。人はそこにいるだけで奇跡だけれど、君はその奇跡がたまたま人の形を取ったというだけじゃない。ほとんどは石のまま終わる。圧力も、時間も、偶然も足りずに。それでもわずかな巡り合わせが重なると、石は宝石になる。



 それと同じで、君はそんな偶然を何度も通って生まれてきた存在なのだろうと思う。少なくとも、僕にとってはそうなのだ。



 君への執着は、僕の技術を飛躍的に向上させた。かつて僕が苦労して引いていた線は、今や呼吸をするように易々と引いてみせる事ができる。 僕のここ最近の画力の向上を受けて、周囲の部員たちは「隅田の奴、急に覚醒したな」と半分冗談めかして言うけれど、僕自身はこれを覚醒とは思わない。



 確かに僕の画力は以前より上がったという自覚はあるけれど、でも技術が身に付いたという感覚はなくて、ただ僕は白紙の上に浮かび上がる輪郭をなぞっているだけなのだ。僕の目が記憶した天月彩葉を正確に写し取っているだけ。それは写し絵をしているような感覚に近くて、自分で作り出しているという感覚ではなかった。



 上手くなったんじゃなく、見えるようになった。細部に至る君の造詣が。

 僕はそれを、ただひたすらなぞるだけだ。



 だが、僕の習慣に終止符が打たれる日がくる。



§



 その日が訪れたのは、放課後の美術室。

 僕はいつものように、君を斜め後ろでスケッチブックを広げていた。 今日の君は夏服の袖を少し捲り、風景画に取り組んでいる。袖口から覗く二の腕の柔らかそうな曲線に見惚れつつ、意識を集中させて鉛筆を走らせる。



 紙の上に浮かぶ君を、慎重に、撫でるように描いていく。あと少し、あと数本の線を引けば、そこに体温が宿る――



「――私の事描いてるの?」



 耳元で、鈴の音を鳴らしたような声がする。僕は一瞬、心地よい声がしたと思った。けれどすぐに、深刻な事態を理解して、心臓が止まる。



「あ、天月さん・・・・・・!」



 ガタン、と椅子を鳴らして立ち上がると、周囲にいた部員たちが驚きの声を上げるけれど、それよりも僕の背後に立ってスケッチブックを覗き込む天月さんがいる事に動揺を隠せなかった。



 僕は彼女の顔を見やると、無表情だった。彼女はいつも表情に乏しい。まるで表情筋が根こそぎ奪われているようだ。でもそれとは裏腹に、彼女の描く絵は表情に富んでいた。感情表現はその顔ではなく、キャンバスの上でするのだと言わんばかりに、溢れんばかりの表情が、彼女の絵からは伝わってくる。



 それは才能をより際立たせるためのいいギャップではあるけれど、でもこうして顔色を見て、内心を察知する必要に駆られる場面において、彼女の無表情はあまりに都合が悪かった。いや、僕の都合など君は知ったこっちゃないんだけどさ。



 天月さんは無表情で僕を見つめ、そして改めてスケッチブックに目を落とす。

 スケッチブックには、紛れもない「君」がいた。僕というフィルターを介して描かれた偏執的な「君」の姿が、映し出されていた。



 それを、当の本人が見てる。

 終わった、と思った。

 気持ち悪い、ストーカー、変質者。 最悪の言葉が次々と脳内を駆け巡り、君の声でそれが再生される。グサグサグサと、僕の心にそれらの言葉のナイフが突き刺さる。


「あ、あの・・・・・・これは、その・・・・・・僕は、」



 咄嗟に言い訳を探して、たどたどしい言葉で何度も声が躓く。それが余計に心証を悪くしているであろう事が容易に察せられて、冷や汗が止まらない。僕は剣が峰に立たされた気持ちになる。



 が、僕の気持ちとは裏腹に彼女の態度は極めて冷静で、無表情だった。 天月さんはおもむろに僕のスケッチブックを手に取り、そしてそこに描かれた「君」に目を通す。表情から感情を読み取る事は難しいけれど、その目から放たれる視線が軽蔑や批判という類いのものではないという事は分かった。



 彼女はジッと、冷めた目で、静かにそれを見つめる。まるで批評でもするみたいに真剣な眼差しで。

 そしてやがて、顔を上げると、無表情のまま、僕の顔を見た。



「よく描けてるね。私、こんな風に見えてるんだ」


 と、そう言った。


「え?」



 と、僕は思わず返した。

 予想に反して、彼女の言葉には棘がなかった。勝手に人をスケッチして怒るか、あるいはもっと冷徹に下手くそが私を描くなとか、描き手として批判してくるのかと思ったけれど、そのどちらでもなく、彼女は僕の絵を褒めてくれた。肯定してくれた。



「でも、私の絵ばっか描いてつまらなくない?」



 そう言って天月さんはパラパラとスケッチブックをめくっては現れる「君」を無表情で見ながらそう言った。膨大な「君」を見ても、気持ち悪いと思わないのだろうか? 僕のやってる事はストーカーだ。普通、勝手に自分の絵を描かれていたら気持ち悪いとか思う筈だけど、彼女にはそうした気持ちはないようだった。



 天月さんにはこういうところがある。周囲の目が無頓着で、絵の事しか頭にない。絵の事にしかリソースを割けない、偏った思考をしている。



「つまらなくないよ」



 彼女の言葉を受けて、僕は気を取り直し言った。



「天月さんはいつ描いても勉強になる」

「ふーん」



 と、無表情でそう言った。

 まるで品定めされてるみたいで、さっきとはまた別の緊張が走る。

 僕は君に気に入られたいと思っている。取り入って無断で絵を描いていた事を許してもらおうとかじゃなく、僕の偏執を、才能人である君に認めて欲しい。その承認を通して、僕の中にも才能の片鱗があると信じたい。



 こんな時に僕はなにを考えているのだろう。



「確かに、最近の君の絵は上達してるよね」



 驚いた。

 天月さんは僕の絵を認知していた。自分の絵以外、興味ないと思っていたけれど。



「そんな事ないよ。いいなと思う絵は、自然と目に付くし」



 つまり、僕の絵は「いい」のか。

 なんだそれ、めちゃくちゃ嬉しいぞ?



「まぁ、それはそれとして」



 と。

 言って彼女はスケッチブックを静かに閉じた。話を締めるように、天月さんは言う。



「私が知らない間にコソコソ描くのはやめて欲しい」



 彼女はハッキリとそう言った。

 僕の目を見て、ハッキリと。

 それを受けて僕は、稲妻が落ちたようなショックを受けて、今に気を失いそうになる。

 でも、かろうじて悪気はなかったという意味を込めて、謝罪した。



「ごめん・・・・・・もう二度としない」

「いや、描くのはいいよ?」

「うん、分かった・・・・・・ん?」

 え、今なんて?

「描いていいの・・・・・・?」

「それはいいよ別に。減るもんじゃないし」

「え、でも描くのやめてって・・・・・・」


「それは私の知らないところでコソコソ描かれてた事について。別に描く事自体は否定しないよ」


「そ、そうなの?」

「うん、だから描くなら堂々と描いて。そっちの方がフェアだから」



 フェア。



「一方的な関係はフェアじゃないでしょ? だから描くなら、私が知った上で描いて。それならいいよ」



 その言い分に、僕は分かったような、よく分からないような。でも彼女が描く事を認めてくれた事実に代わりはなくて、僕は安堵とちょっとの自信が湧いた。



「ありがとう、極力君の邪魔にならないような位置で描くよ」


 すると彼女はかぶりを振った。



「別にいいよ、気にしないし、気にならないから。顔の見えるところに座ったら」

「え」


「見えないところで描かれてるって思う方が気になるし。描くなら私の視界にいて」

「は、はい」



 呆気に取られる。正直、君は都合が良過ぎる。なぜ君は、僕にとってこれほどまでに都合がいいのだろう?

 ただただ僕は呆気に取られる思いだ。でも、その気持ちは有難く受け取る。

 そして、この日を境にして僕は堂々と君を描く。



 もう隠す必要はない、なんの後ろめたさを感じる事もなく君の瞳を、鼻筋を、唇を、その真剣な表情を見つめ、それを描き留める事が出来る。 彼女の無頓着さが、僕の執着に居場所を与えた。これはある種の共犯で、僕らの間には奇妙な関係が築かれた。


 僕の両目はかつてないほどの集中力でつぶさに君を観察する事が出来、僕の右手は、かつてないほど饒舌に動き出す。

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