君を描く
大いなる凡人
第1話
同じ美術部に所属する天月彩葉さんの絵が好きだ。
彼女は僕と同い年。けれど彼女の絵には、どう考えても同じ時間を生きてきたとは思えない隔たりがあった。
彼女の描く絵は強い光を放っている。目の前の光景よりも鮮やかで、現実よりも美しい輝きがあった。
美術部の窓辺から見える山々の風景が、彼女の描く絵の中では、別の意味を持って立ち上がっていた。
同じ場所で、同じ時間に、同じ画材を使って絵を描いている筈なのに、彼女が引く線は全く異なっていた。
まるで天才と凡人との間に線を引くように。
でもそうやって線を引かれると、距離を置かれると、むしろ僕は心惹かれる。
凡庸な僕にはない才能。君の感性に、好奇心を掻き立てられる。興味をそそられる。
どうしたらこんな風に絵を描けるのだろう。
僕は知りたい。
線の引き方、色の選び方、構図の取り方、混色の配分――君のやり方を。
筆がキャンバスを叩くリズムや、迷いのない手のひらの返し方。その全てを僕の脳に、右手に焼き付けたい。
絵は山のように逃げたりしない。
そこに山があるのなら登る事は不可能ではない。絵だって同じだ。そこには明確な過程がある。
ただ、僕には君のような登り方が分からないだけだ。
だから見つけたい。
それを見つければ僕も君と同じように描けるんじゃないか。完璧ではなくても、君の絵に近付く事はできるんじゃないか?
彼女の絵を見て、僕は自然とそんな考えが浮かぶ。
だから僕は、君を観察する。
§
最初は、純粋に盗むつもりだった。 放課後の美術室。天月彩葉さんの斜め後ろが、僕の定位置になった。
彼女がキャンバスに向かう時、そこには一種の聖域のような静寂が漂う。それは単に僕が、彼女を神格化しているからそう思うだけかもしれないけれど、でも彼女の纏う空気は他とは違って、ノイズがない。彼女だけの空気が漂う。
僕は自分のイーゼルを形だけセットして、キャンバスの影から彼女の一挙手一投足を観察する。
僕が知りたいのは君の技術だ。
彼女が握る筆の太さや、筆を置く角度、キャンバスを叩くリズム、混色の配分。
とくに君の絵で特徴的なのは、淡い青の色使いだ。
白の中に薄らと青みがかった色が見えるこの配色は、君しか出せない色合いがある。
前に気になって、君のパレットを覗き見た事がある。その際の混色の配分がチタニウムホワイトが八割、ウルトラマリンがほんの少量。そしてイエローオーカーを爪楊枝でほんの微量混ぜ合わせていた。
僕も試しに作ってみたけれど、君と同じようにはならなかった。
不思議だった。同じレシピで作った筈なのに、君と同じような色合いを出せない。あのオパールブルーは君だけの色だった。
でもそれも、いつか解き明かしたい。過程の見えない色使いも、観察の末に解き明かし、君に近付きたい。だから僕は目を凝らすのだ。一瞬の瞬きすらも惜しいほど、僕は君を見る。
けれど、僕は無意識のうちに致命的なミスを犯していたと、後に気付く。
彼女の筆の動きを正確に理解するつもりでいたけれど、僕の視点は筆先という点から、彼女の指先に移っていた。
滑らかな線の引き方を知るためには、その筆を支える指先の力を知らなければならない。指先の力を知るためには、それを動かす前腕の筋肉のしなりを、そしてその動きを制御する呼吸のタイミングを理解しなければならない。
気付けば僕の目は、キャンバスの上で躍る色彩ではなく、君の右手に浮き上がる繊細な腱の動き追っていた。
筆が走るたびに、彼女の細い手首が緩やかな弧を描く。その拍子に制服の袖口から覗く白過ぎる手首が、窓からの光を反射して発光する。
「・・・・・・あ」
不意に呼吸が止まった。
彼女が筆を洗うために、一度顔を上げた。集中によって研ぎ澄まされた横顔。結んだ唇の端にある小さな力み。思考するたびに僅かに震える小鼻。そしてキャンバスを見つめる君の目は、睫毛が作る陰影によって深みのある印象を与えた。
君を知る為に覗き込んだ先に見えたのは技術ではなかった。そこには君がいた。天月彩葉が目の前に佇んでいた。
最早、僕は君の絵を見ていなかった。君のロジック、技術を求めていた筈の視線は、彼女の輪郭を鮮明に焼き付けるためだけに動いていた。
そして、僕がこの目で集めた情報が、いよいよオーバーフローして頭が揺れる。
耐え切れずに、視線を落とし、手元の真っ白な画用紙を見つめた。
「・・・・・・っ」
すると僕は驚きを禁じ得なかった。 なにも描かれていない筈の白紙の上に、今さっきまで見つめていた「君」がいた。
残像と言うにはあまりに鮮明で、その輪郭がくっきりと見える。
僕は吸いよせられるように鉛筆を握った。そして、その輪郭をなぞる。好奇心が抑えられない。この補助線を引いて君を描き出した時、どんな姿が露わになるのか。
カリ、カリ。と硬い鉛筆の先が紙の中に溶け込み、消えそうになる彼女の輪郭を固定し、その場に留める。 視線を上げれば、君がいる。
視線を落としても、君がいる。
これは本当に自分で描いてるのか?
僕はのめり込むように鉛筆を動かした。それは一瞬の出来事だった。否、時を忘れるほど没頭して、時間の感覚が曖昧になっているだけだった。僕は一息に君の姿を白紙の上に描き留めた。
そして出来上がった絵を見た時、そこには今まで僕が到達できなかった画力で描かれた「君」がいた。
描き終えて、僕はしばし呆然としていた。目の前で起きた事象について、ただただ驚き、放心していた。
この絵を描き上げる際、僕は一度も君を見ていない。なのに、出来上がった絵は、驚くほどに鮮明で、生々しいタッチだった。
ただ、白紙の上に浮かび上がる線をなぞっただけだ。なのになぜ、これほどの情報量を定着させる事ができたのか。
筆の動かし方を知りたかっただけなのに、なぜ僕の右手は、君の腕の動きの詳細ではなく、君自身の指の間接やしなりを記憶しているんだ?
でも、この絵を描き上げた時の没頭するような集中力は、今まで感じた事もないような高揚感があり、そしてそれは今も尚、余韻として残っていた。
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