第9話 覇王 vs 虚無

「無礼な……! あまりに無礼ですわッ!!」


 四つ巴のゴングが鳴るよりも早く、ヒステリックな金切り声がリングに響き渡った。『虚飾の騎士王』ローズマリーだ。彼女は美しく整えられた縦ロールの髪を振り乱し、黄金のプレートアーマーをガシャガシャと震わせていた。


「私の試合よ! 私が主役のステージよ! なのに、なぜこんな薄汚いドブネズミどもと混ざらなければならないの!?」


 彼女の怒りの矛先は、乱入者であるイゾルデに向けられた。

 イゾルデはノットの死骸の傍らに立ち、無表情でダガーについた血を拭っている。その態度が、プライドの高い騎士王の逆鱗に触れた。


「私を無視するなァァッ! セバスチャン、あの下賤な石女うまずめの首を撥ねるわよ!」


 ローズマリーが背後の執事を呼ぶ。だが、返事はない。


「……セバスチャン?」


 振り返った彼女が見たのは、白目を剥いて泡を吹き、無様に倒れている老執事の姿だった。


「なっ……!?」


「煩い」


 低い、地響きのような声。ローズマリーが恐る恐る視線を戻すと、そこには『隻眼の龍帝』ドラクルが立っていた。

 彼女は腕組みを解き、ただ一歩、踏み出しただけだ。だが、その一歩から放たれた覇気だけで、一般人ベータである執事の神経を焼き切ってしまったのだ。


「雑音が過ぎる。……消えろ、メッキ剥がれ」


「メ、メッキですって……!?」


 ローズマリーの顔が屈辱で真っ赤に染まる。彼女の手元で、蛇腹剣がジャラリと伸びた。


「黙りなさい! その貧相な布切れ一枚の股間で、私の黄金を愚弄するか! この貞操帯こそが、選ばれし高貴なる血統の証! アダマンタイトの輝きこそが……」


「能書きはいい」


 ドラクルが動いた。速いという次元ではない。空間が圧縮されたかのように、一瞬でローズマリーの目の前に出現した。


「ひッ!?」


 ローズマリーが反射的に剣を振るう。だが、ドラクルは避けもしない。彼女は素手で――そう、鍛え上げられた素手で、襲いかかる蛇腹剣の刃を鷲掴みにした。


「ば、馬鹿な!? 素手でなんて……!」


「軽い。羽毛のような剣だ」


 ドラクルは無造作に剣を引っ張った。ローズマリーの身体が、抗う術なく引き寄せられる。

 ドラクルの巨大な左手が、ローズマリーの下腹部へと伸びた。狙いは、彼女が誇る『黄金の貞操帯』。


「貴様の誇りとやらは、これか?」


「や、やめ……触るな、下賤な手で私の聖域に……ッ!」


 ドラクルの指が、純金の装飾に食い込む。嫌な音がした。世界最高硬度を誇るはずのアダマンタイトの芯が、ドラクルの握力――いや、アルファとしての圧倒的な支配力の前で、粘土のように歪み始めたのだ。


「あ、アガッ……!? 痛い、潰れる、恥骨が、割れちゃうぅぅッ!」


「中身を守れぬ装甲など、ただの重りだ」


 轟音と共に、黄金の芸術品が粉砕された。煌びやかな破片が飛び散り、ローズマリーのドレスの裾が弾け飛ぶ。


「いやぁぁぁぁぁぁッ!!」


 ローズマリーがその場に泣き崩れる。露わになったのは、高貴さの欠片もない、恐怖で失禁し、震え上がったただの「弱い生き物」の股間だった。


「所詮はベータ、か……興が冷めた」


 ドラクルは、手の中に残った黄金のクズをパラパラと捨てると、もはやローズマリーを一瞥もしなかった。

 鎧を剥がされ、誇りを砕かれた騎士王は、ガタガタと震えながら両手で股間を隠し、這うようにしてリングの隅へと逃げていった。

 たった一撃。暴力的なまでの格の違いを見せつけられ、会場は静まり返った。だが、その静寂の中で、一人だけ平然としている女がいた。


「……力任せなゴリラね」


 イゾルデだ。彼女はドラクルの圧倒的な武威を目の当たりにしても、眉一つ動かしていなかった。


「……ほう」


 ドラクルがゆっくりとイゾルデに向き直る。

 ガレアのことなど眼中にないかのように、二人の怪物が対峙する。


「我が覇気を受けて立っているとはな。……シグマたったか。貴様、何者だ?」


「イゾルデ。ただの清掃員よ。この世の無駄を片付ける」


 イゾルデはダガーをだらりと下げたまま、無防備に歩み寄る。

 ドラクルの隻眼が細められた。


「無駄、か。……ならば試してみよう。我が王気が、貴様にとって無駄かどうかを」


 ドラクルの全身から、先ほどローズマリーを精神崩壊させたものの数倍に及ぶ、最大出力のフェロモンが噴出した。

 大気が歪む。石畳が亀裂を入れる。


 アルファであるガレアでさえ、離れていても呼吸が困難になるほどの重圧。

 ルシアンが金網にしがみついて耐えているのが見える。


「……臭いって言ってるでしょ」


 イゾルデの髪が、風圧でわずかに揺れただけだった。彼女は顔色一つ変えず、ドラクルの「支配の領域」へと足を踏み入れた。


「な……?」


 ドラクルが初めて動揺を見せた。最強の武器である種としての格付けが通じない。生物としてのピラミッドの外側にいる存在。それがシグマ。


「面白い……! フェロモンが通じぬなら、肉体言語フィジカルで語るまで!」


 素手喧嘩ステゴロの構え。彼女の巨体から繰り出される拳は、攻城兵器に等しい威力を持つはずだ。


「死ねェッ!!」


 ドラクルの右拳が、音速を超えてイゾルデの顔面を襲う。当たれば頭蓋が蒸発する一撃。

 しかし、イゾルデはそれを「待っていた」。


 ドラクルの剛拳が、彼女の頭上の空気を切り裂く。その一瞬の隙、イゾルデの身体が沈み込む。

 ドラクルの脇ががら空きになり、そして何より――彼女の無防備な下腹部が、イゾルデの目の前に晒された。


「大きいことは、いいことばかりじゃないわ」


 イゾルデの手には、ダガーはなかった。いつの間に持ち替えたのか、指の間には一本の、極細の長い針が光っていた。


「見掛け倒しの王様。……ここが留守よ」


 ドラクルの股間には、ローズマリーのような堅牢な鎧も、ガレアのような鉄枷もない。

 あるのは、薄い布きれ一枚。彼女自身の筋肉操作で貞操帯を破壊したという伝説は、裏を返せば、急所を晒して戦っているという慢心に他ならなかった。


 イゾルデの手が閃く。

 それは、あまりに軽い音だった。長い針が、布を貫通し、ドラクルの秘部の深奥――陰核の根元にある、太い神経の束へと深々と突き刺さった。


「――が、ぁ……?」


 ドラクルの振り抜いた拳が空中で静止する。

 痛みはない。いや、脳が「痛み」として処理する前に、神経系全体が過剰な電気信号で焼き切れたのだ。


 最強のアルファとしての生命力、闘争本能、性衝動。それら全てを司る中枢が、たった一本の針によって物理的にショートさせられた。


「……あ、……」


 ドラクルの隻眼から、光が消える。大地を揺らして、大陸最強の覇王が仰向けに倒れた。

 股間の布には、針の穴のような小さな血の滲みが一つあるだけ。白目を剥き、口からは泡すら吹かず、ただ事切れていた。

 

「……嘘、だろ……」


 ガレアは呆然と立ち尽くしていた。

 あのドラクルが。ガレアがいつか追いつきたいと憧れ、恐怖した絶対王者が……。

 

 会場は凍りついていた。悲鳴すら上がらない。あまりに静かで、あまりに理不尽な死の現実に、誰もが言葉を失っていた。


「……さて」


 イゾルデは、死んだドラクルの股間から針を引き抜き、無造作に血を拭った。 

 リングの上に立っているのは、私と、死神、二人だけ。

 彼女は、ゆっくりとこちらを向いた。


「次はあなたよ、鉄屑の女」


 イゾルデの視線が、ガレア股間を撫で、そして――リングの外にいるルシアンへと移った。


「……いいえ。あなたの鍵、ね」


 その言葉が意味するものを理解した瞬間、ガレアの背筋に、ドラクルの死以上の絶望が走った。

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