第2話 鉄格子の夜
宿に戻った後の時間は、ある種の儀式だった。
安宿の狭いシャワールームで、ルシアンがホースの水をかけながら、デッキブラシでガレアの身体を洗うのだ。肉の溝に入り込んだ返り血と、そして何より、股間の鉄枷にへばりついた肉片を洗い流すために。
「冷たいぞ、ルシアン」
「我慢しろ。血が乾いて固着すると、錆の原因になる」
ルシアンは彼女の股座に洗剤をかけ、スポンジで丁寧に鉄板の表面を磨いていく。そのたびに、金属越しに彼の指の感触が伝わってくる。
硬い鉄の冷たさと、彼の手の温かさ。その矛盾した感覚が、今のガレアそのものだった。
「……なぁ、そろそろ外してくれないか? 風通しが悪くて蒸れるんだ」
「駄目だ。今夜は満月だぞ。ホルモンバランスが乱れやすい夜だ」
ルシアンは淡々と作業を終えると、バスタオルをガレアの頭に投げつけた。
安宿のベッドは、ガレア一人が寝るだけで軋みを上げる安物だった。彼女は無理やりルシアンの隣に潜り込んだ。
「狭いな」
「お前がデカいんだ」
ルシアンが苦笑し、背中を向けて横になる。
ガレアはその背中に、後ろから覆いかぶさるように身体を寄せた。いわゆるスプーンの体勢だ。彼女の腕が彼の胴体をすっぽりと抱え込み、彼女の顎は彼の肩に乗っている。
鼻腔をくすぐるのは、シャンプーの香りと混じり合った、彼自身のオメガの匂い。甘く、少しスパイシーで、脳髄を痺れさせるような極上の香り。
身体の奥底で、本能という名の獣が爪を立てる。だが、その獣の鼻先には、常に冷たい鉄格子がある。
ガレアが腰をルシアンの尻に押し付けようとすると、股間の鉄枷が彼の尾てい骨に当たって、硬質な音を立てた。
柔らかな肌と肌が触れ合うことはない。ガレアの最も熱い部分は分厚い鋼鉄に閉ざされ、彼を感じることができない。
「……邪魔だな、これ」
「少し離れろ。背中に当たって痛い」
ルシアンは文句を言いながらも、ガレアの腕を振りほどこうとはしなかった。むしろ、彼女の腕の上から自分の手を重ね、指を絡ませてくる。
「ガレア。俺たちは番いじゃない。契約者だ」
「わかっている」
「俺は弱いオメガで、お前は最強のアルファだ。この鉄枷がなければ、お前は獣の本能で俺を食い殺すかもしれない。……俺は、お前に壊されたくない」
ルシアンの声は静かだった。彼が恐れているのは、ガレアそのものではない。「アルファ」という種族の、抗えない捕食本能だった。
かつて多くのオメガが、暴走したアルファに身体を引き裂かれ、心を壊されてきた歴史がこの世界にはある。
「俺は、お前を壊さない」
ガレアは彼の耳元で囁いた。
「俺は、お前の犬だ。飼い主を噛む犬は殺処分でいい」
「……ふふ、物騒な話だな」
ルシアンは寝返りを打ち、彼女のほうを向いた。暗がりの中、彼の手がガレアの首元の鎖を伝い、胸の間を滑り落ち、そして股間の鉄枷へと伸びる。冷たい鉄の表面を、彼の細い指が愛おしそうになぞった。
「この大会で優勝したら……その時こそ、俺はこの鍵を使う」
ルシアンは、首から下げていたペンダントを引き出した。
銀色の小さな鍵。それが、ガレアの肉体を、欲望を、そして「女」としての全てを解放する唯一の
「古代遺物の力で、オメガとしての虚弱体質を治す。そうすれば、お前のフェロモンを受け止めても、壊れずに済むはずだ」
「本当か? そうなれば……本当にデキるのか?」
「ああ。……その時は、たっぷりと可愛がってやるよ」
ルシアンはガレアの額に、軽く口づけを落とした。それは子供を寝かしつけるような、優しい挨拶だった。
「おやすみ、ガレア」
「……おやすみ、マスター」
ガレアは目を閉じる。
股間の拘束具は相変わらず窮屈で、内部の振動子は微弱な振動を続けている。けれど、不思議と苦痛ではなかった。
この鉄の冷たさは、未来への約束の温度だ。いつかこの鉄が外され、熱い肉と肉が繋がる瞬間を夢見ながら、ガレアはルシアンの匂いに包まれて意識を手放した。
◇
翌日。本戦トーナメント一回戦。
二人は、再び闘技場の石畳の上に立っていた。
「さあ始まりました第一試合! 鉄錆の枷、対するは……双頭の毒蛇だあああ!!」
対面のゲートから現れたのは、異様な二人組だった。
瓜二つな二人の少女。一人は全身に蛇の刺青を纏い、小柄な身体を鞭のようにしならせている。もう一人は露出度の高い踊り子の衣装を着ていた。
ジェイドとルビー。悪名高い暗殺者姉妹だ。
「あらァ、大きいわねェ。まるで
「なんかトロそう。ねえお姉ちゃん、あたしの毒で遊んでいい?」
クスクスと笑う姉妹。
ガレアは不快感に眉をひそめ、斧を構えた。
あいつらからは、嫌な匂いがする。腐った花のような、人工的な甘ったるさ。
「気をつけろガレア。奴らはまともには来ないぞ」
「ああ。一撃で叩き潰してやる」
開始のゴングが鳴る。
ガレアが地面を蹴り、一気に距離を詰めようとした瞬間だった。
プシュウゥゥゥ……ッ! 妹のルビーが懐から取り出した球体を地面に叩きつけた。
紫色の煙が爆発的に広がり、闘技場を覆い尽くす。
「なんだ、目くらましか!?」
ガレアは視界を奪われ、足を止めた。だが、本当の脅威は視覚ではなかった。
「――ッ!?」
吸い込んだ瞬間、肺が焼け付くような熱さを覚えた。
違う。熱いのは肺だけじゃない。下腹部だ。股間の奥底、鉄枷に守られているはずの場所が、かつてないほど激しく脈打ち始めたのだ。
「う、ぐぅ……ッ! な、んだ、これ……!?」
「『
オメガの発情フェロモンを化学的に濃縮し、気化させた非人道兵器。
本来、制御されているはずの
「あ、はぁ、はぁ……ッ! ル、ルシアン……!?」
膝から力が抜ける。斧が重い。
鉄枷の内部センサーが異常を検知し、振動子が警告モードに切り替わり、激しく暴れ回る。だが、その刺激すらも、今のガレアには拷問ではなく、焦れったい快楽の助長にしかならなかった。
「うっふふ、効いてる効いてる! あのデカ女、もうあんなに顔を赤くしてるわ!」
霧の中から、ルビーの声が響く。
そして、音もなく背後から忍び寄る気配があった。
ジェイドだ。毒を塗った二刀の短剣が、ガレアの無防備なアキレス腱を狙って振り下ろされる。
「ガレアッ!!」
ルシアンの叫び声が、遠く聞こえた。
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