第3章 消え始める存在

リンが倒れてから、一週間が過ぎた。


 彼女は目を覚ましていたが、ほとんど口を開かなかった。

 食事も水も受けつけず、ただ窓の外に広がる街並みの一点を見つめ続けている。その視線の先に何があるのか、僕たちには分からなかった。


「脳のショックかもしれない」


 レヴォはそう言って状況を説明しようとしたが、その声にはいつもの確信がなかった。

 理屈で覆えないものが、すでにこの町に入り込んでいる――誰もが、薄々気づいていた。


 水滴は、まだあの場所にある。

 だが、近づくたびに違和感は強くなっていた。


 映る町の歪みはさらに深まり、路地は一本、また一本と増えていく。

 まるで「こちらへ来い」と誘っているようだった。


 その前で、セジュが立ち止まっていた。


 彼はリンのそばにいることが多かった。

 誰よりも静かで、誰よりも長く、彼女を見つめていた。


「……なあ、ピロ」


 ある夕方、誰もいない路地でセジュが声をかけてきた。


「もしさ、この町が“間違った未来”を抱えてるとしたら……どうする?」


 唐突すぎて、言葉が出なかった。

 セジュは続ける。


「誰かが、それを肩代わりしなきゃいけないとしたら」


「……何の話だよ」


 そう返すと、彼は一瞬だけ、困ったように笑った。


「ごめん。独り言だ」


 だがその夜、事態は一気に進んだ。


 リンが、突然叫んだのだ。


「——行っちゃだめ!!」


 飛び起きると、リンは上半身を起こし、扉の方を凝視していた。

 その先にいたのは、セジュだった。


 彼は振り返り、僕たちを見た。

 その目には、恐怖も迷いもなかった。ただ――覚悟だけがあった。


 次の瞬間、空気が歪んだ。


 水滴のあった場所から、影が伸び、路地が“開いた”。

 歪んだ町が、現実と重なり始める。


「やめろ!」とカルラが叫び、

 僕とカルラは剣を掴んで走り出した。


「来るな!!」


 セジュの叫びが、空気を裂いた。


 その瞬間、彼は“それ”の隣に立っていた。

 角と翼を持つ影――悪魔のような存在の横で、まるで当然のように。


 セジュは、振り返らなかった。


 影が彼を包み込み、路地は静かに閉じる。

 そして、信じられないことが起きた。


「……セジュ?」


 誰かがそう呟いたが、言葉に確信がなかった。


 名前を呼んでも、記憶が引っかからない。

 写真も、記録も、彼の存在だけが、最初から無かったかのように――薄れていく。


 僕だけが、歯を食いしばっていた。


 忘れてはいけない。

 忘れたら、終わる。


 この町で、

 何かを守るために、自分を消した存在がいたことを。

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