第3話

 その日は、特別な出来事があったわけじゃない。

 ただ、いつもより少し長く、彼と一緒にいた。

 午後の街は、穏やかに見えるね。

 人通りも少なく、風がやさしく吹いている。

 私たちは並んで歩きながら、どうでもいい話をしていたはずなのに、会話の内容はほとんど覚えていない。

 覚えているのは、彼の横顔だけだ。

 ――近い。

 それに気づいた瞬間から、胸の奥がうるさくなった。

 指先がじんわりと熱を持ち、視線の置き場に困る。

 

「……真理?」

 

 名前を呼ばれて、我に返る。

 ユウトが、不思議そうにこちらを見ていた。

 

「どうしたの?」

「ううん、なんでも……」

 

 嘘だった。

 本当は、ずっと我慢していた。

 触れたい。

 声を近くで聞きたい。

 ――確かめたい。

 この人が、本当にここにいるのか。

 ベンチのある小さな公園で、私たちは足を止めた。

 夕暮れが近づき、空は淡い橙色に染まっている。

 ユウトはベンチに腰を下ろし、私も隣に座った。

 肩と肩が、かすかに触れる。

 それだけで、心臓がもたない。

 呼吸が、うまくできない。

 

「……ねえ、ユウト」

 

 名前を呼ぶだけで、理性が壊れそう。

 

「私さ、たまに思うの」

「なにを?」

「ここがゲームだって、忘れちゃいそうになる」

 

 彼は黙って、私の言葉を待っている。

 

「君が……あまりにも、普通にそこにいるから」

 

 視線を上げると、彼の顔がすぐ近くにあった。

 思ったよりも、ずっと。

 逃げ場なんてなかった。

 それでも、私は止まらなかった。

 

「私……」

 

 喉が詰まる。

 言葉にする前に、感情が先に溢れた。

 

「……好き」

 

 一瞬、空気が止まった。

 ユウトの目が、わずかに見開かれる。

 

「真理……」

 

 困ったように、でも拒む気配はない。

 

「それは……」

 

 彼が何かを言いかけた、その瞬間を逃がさない。

 もう、我慢できなかった。

 私は身体を傾け、ユウトの頬に手を伸ばす。

 自分でも驚くほど、自然な動きだった。

 

「……っ」

 

 唇が、触れた。

 ほんの一瞬。

 確かめるような、浅いキス。

 温かかった。

 はっきりとした感触があって、逃げようとしない唇がそこにあった。

 ――あ。

 これは、データなんかじゃない。

 離れた瞬間、私は我に返った。

 

「……ご、ごめん!」

 

 一気に血の気が引く。

 何をしているんだ、私は。

 これはゲームで、彼はキャラクターで――。

 

「今の、忘れて……!」

 

 立ち上がろうとした私の手首を、ユウトが掴んだ。

 力は強くない。

 でも、はっきりとした意志を感じる。

 

「……逃げないで」

 

 低い声で詰め寄った。

 いつもより、ずっと。

 私は、動けなくなった。

 

「真理が悪いわけじゃない」

 

 ユウトはゆっくり立ち上がり、私と向き合う。

 

「ただ……覚悟がいるんだ」

「覚悟……?」

「ここでそういうことをすると、戻れなくなる」

 

 胸が、ぎゅっと締め付けられる。

 

「君は、この時代の人だ。帰る場所がある」

「ユウトは?」

 

 問い返すと、彼は一瞬、目を伏せた。

 

「……僕は、ここにしかいない」

 

 その言葉が、鋭く刺さった。

 

「だから」

 

 彼は、少しだけ微笑む。

 

「君から奪うことは、できない」

 

 それなのに。

 彼は、私の頬にそっと触れた。

 指先が、さっきよりもはっきりと熱を伝えてくる。

 

「でも……」

 

 唇が、再び近づく。

 

「今のキスは、嫌じゃなかった」

 

 次の瞬間、彼の唇が重なった。

 さっきよりも、深く。

 逃げ道を塞ぐような、でも優しいキス。

 息が絡み、時間が溶ける。

 私は、彼の服を無意識に掴んでいた。

 ――戻れなくなる。

 それが、怖くないと言えば嘘になる。

 それでも。

 離れたとき、ユウトは私の額に軽く触れた。

 

「……これで、君はまた少し、ここに縛られた」

 

 苦笑混じりの声。

 

「それでも、いい?」

 

 私は、答えを迷わなかった。

 

「……いい」

 

 たった一ヶ月の恋。

 終わりが見えている恋。

 それでも、この瞬間を選んだ。

 夕焼けの中、私たちは何も言わず、手を繋いで歩き出す。

 同じ時間軸の世界線で。

 確かに、恋をしていた。

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