第8話 「魔法でも治らない肌荒れ」に悩む公爵夫人に、油と水を混ぜた「乳液」を塗ってあげた結果

国教の腐敗司祭を、虹色の炎(炎色反応)で追い返した夜。  店は祝杯ムードに包まれていたが、私――ルシアンの思考は、氷のように冷えていた。


(……勝ったと思うなよ。これは宣戦布告だ)


 教会のメンツを潰したのだ。相手は巨大な組織。  次は小太りの司祭ではなく、武装した「神殿騎士団」や、狂信的な「異端審問官」が送り込まれてくるだろう。  そうなれば、ガルフの剣術や、私の科学トリック(手品)だけでは防ぎきれない。


 暴力には、より強大な「権力」をぶつける必要がある。  教会ですら手出しできない、王国の絶対的な実力者。


 狙うは、王都の社交界に君臨する「女帝」。  エリザベート・ヴァン・ローゼンバーグ公爵夫人だ。


 私は、テーブルの上に置かれた「白い石鹸」を見つめながら、ニヤリと笑った。  撒き餌はすでにしてある。  そろそろ、大物が食いつく頃だ。


          


 深夜。  街灯も消え、雨音だけが響く路地裏の店に、一台の馬車が止まった。  紋章はない。お忍び用の黒塗りの馬車だ。


 ノックの音。  トーマスが震える手で扉を開けると、厚いベールで顔を隠した女性が入ってきた。  護衛も連れていない。だが、その身に纏うドレスの生地や、漂う香水の香りは、隠しきれない高貴さを放っている。


「……ここが、噂の『聖女の店』かしら?」


 声には、傲慢さと、それ以上の焦燥感が滲んでいた。  私はカウンターの奥から、恭しく一礼した。


「お待ちしておりました、公爵夫人」 「ッ!? ……人払いをしてちょうだい」


 夫人は正体を見抜かれたことに一瞬動揺したが、すぐに威厳を取り戻して命じた。  私はトーマスとガルフを下がらせ、アリアだけを側に残した。


 店内に静寂が落ちる。  夫人はゆっくりと、顔を覆っていたベールを上げた。


「……噂の石鹸とやらで、この肌が治せるものなら治してみなさい」


 顕になったその顔を見て、アリアが息を呑んだ。  酷い有様だった。


 かつては「王都の華」と謳われた美貌なのだろう。目鼻立ちは整っている。  だが、その肌は干上がった大地のようにガサガサに乾燥し、所々が赤くただれ、粉を吹いている。厚塗りの化粧でも隠しきれない惨状だ。


「治癒魔法も、最高級のポーションも試したわ。でも、治るどころか悪化する一方……。私の顔は、もう終わりよ」


 夫人が悲痛な声で呟く。  私は内心で頷いた。  当然だ。それは「魔法治療」の副作用(オーバードーズ)なのだから。


 この世界の「回復魔法」や「ポーション」は、細胞の代謝を強制的に活性化させ、傷を塞ぐ荒療治だ。  切り傷ならそれでいい。  だが、美容目的で連発すればどうなるか?  細胞分裂の限界を超え、肌の水分と油分が枯渇し、バリア機能が崩壊する。  いわば、疲労困憊の馬に鞭を入れて走らせているようなものだ。


(必要なのは「活性化」じゃない。「保護」と「保湿」だ)


 私は椅子を勧め、自信たっぷりに微笑んだ。


「ご安心ください、夫人。それは病気ではありません。貴女の肌は、ただ『喉が乾いている』だけなのです」 「乾いている……?」 「ええ。魔法は傷を治しますが、潤いは与えてくれません。……アリア、準備を」


 私は実験器具(フラスコやビーカー)を取り出した。  夫人から見れば、怪しげな錬金術の道具に見えるだろう。


 ここで行うのは、《乳化(Emulsification)》の実験だ。


 用意したのは三つの材料。  1.最高級のオリーブオイル(油分)。  2.バラの花弁から蒸留したローズウォーター(水分)。  3.そして、ミツバチの巣から採れるミツロウ(界面活性剤)。


 私はビーカーにオイルとミツロウを入れ、アルコールランプで加熱して溶かす。  そこに、温めたローズウォーターを少しずつ加え、ガラス棒で激しく撹拌する。


「見ていてください」


 本来、「水」と「油」は混ざり合わない。  どれだけ振っても、すぐに分離してしまう。犬猿の仲だ。  だが、ここに「ミツロウ」という仲介役が入ることで、奇跡が起きる。


 透明だった二つの液体が、混ざり合い、白濁していく。  さらに撹拌を続けると、液体はとろりとした粘度を持ち始め――。


 ――完成した。  ビーカーの中には、雪のように白く、ふわりとしたクリームが生成されていた。


「な、何なの……? 油と水が、混ざったというの?」


 夫人が目を丸くする。  これは科学の世界では「エマルション(乳濁液)」と呼ばれる現象だ。  界面活性剤の分子が、油の粒子の周りを取り囲み、水の中に均一に分散させる。  水と油が手を取り合った、物理的な和解。


 これこそが、人類最古の保湿剤「コールドクリーム」の原型だ。


「さあ、夫人。これを患部に」


 私は出来立てのクリームを指に取り、夫人の赤くただれた頬に塗布した。


「ひゃっ……!」


 夫人が可愛らしい声を上げる。  塗った瞬間、水分の気化熱によって「ひんやり」とした心地よさが走るからだ(だからコールドクリームと呼ばれる)。


 油分が肌に皮膜を作り、水分を閉じ込める。  崩壊していた肌のバリア機能が、人工的に修復されていく。


 私は丁寧に、顔全体にクリームを馴染ませていった。  魔法のような派手な光はない。  だが、その効果は劇的だった。


 カサカサだった皮膚が、スポンジが水を吸うように潤いを取り戻していく。  赤みが引き、もっちりとした弾力が蘇る。


「鏡を」


 アリアが鏡を差し出す。  恐る恐る鏡を覗き込んだ夫人は――絶叫した。


「嘘……これが、私……?」


 そこに映っていたのは、老婆のように萎びていた肌ではない。  潤いに満ち、艶やかに輝く、十年前の自分の肌だった。


「凄い……! 魔法よりも肌が軽い! 痛くないわ! シワも消えている!」


 夫人は震える手で自分の頬を触り、そして鏡に向かってうっとりと陶酔した。  先ほどまでの傲慢な態度はどこへやら。  今の彼女は、初めて化粧をした少女のように舞い上がっている。


「貴方! この薬をいただくわ! いくら? 金貨百枚? それとも屋敷が欲しいの?」


 夫人が私の手を取り、前のめりに迫ってくる。  金貨百枚。  一生遊んで暮らせる大金だ。  トーマスなら即座に飛びつくだろう。


 だが、私は首を横に振った。


「お金は一銭もいりません」 「な、なんですって?」 「このクリームは、アリア様の祈りと私の技術の結晶……いわば『聖遺物』です。金で売買などできません」


 私は悲しげな顔で嘘をついた。  そして、ここからが本当の商談(クロージング)だ。  私は夫人の耳元に顔を寄せ、悪魔のように囁く。


「それに夫人。このクリームは、世界で貴女様だけの『特注品(オートクチュール)』にしたいのです」


「……特注品?」 「ええ。他の誰にも渡しません。王妃様にも、愛人の令嬢たちにも。……この国で、貴女様だけが、永遠の若さを独占できるのです」


 夫人の瞳孔が開いた。


 これは《スノッブ効果(Snob Effect)》だ。  「多くの人が持っているもの」に価値を感じるバンドワゴン効果とは真逆の心理。  「他人とは違うものが欲しい」「入手困難なものが欲しい」という、特権階級特有の差別化欲求。


 特に、プライドの高い彼女のような人間にとって、「自分だけが持っている」という優越感は、どんな宝石よりも価値がある。


「独占……私だけの……」 「はい。ですが……」


 私は言葉を濁し、困ったように視線を逸らした。


「最近、教会の司祭たちがうるさくて……。この店が潰されれば、もう二度とこのクリームを作ることはできません」 「教会? あの豚どもが?」


 夫人の表情が一瞬で変わった。  乙女の顔から、冷酷な「女帝」の顔へ。


「私の美しさを邪魔するつもり? ……許さないわ」


 彼女は扇子をパチンと閉じた。  その目には、明確な殺意と、私への庇護欲が宿っている。


「安心なさい、ルシアン。この店は、ローゼンバーグ公爵家が保護します。明日、我が家の紋章が入った旗を送るわ」 「……よろしいのですか?」 「ええ。その代わり、そのクリームは私が死ぬまで作り続けなさい。いいわね?」


 契約成立だ。


「仰せのままに、マイレディ」


 私は恭しく跪き、夫人の手に口づけをした。


 これで勝った。  公爵家という「最強の盾」が手に入った。  神殿騎士団が来ようが、異端審問官が来ようが、公爵家の旗が掲げられたこの店に踏み込めば、それは王国への反逆になる。


 夫人は上機嫌で、一ヶ月分のクリームを持って馬車へと戻っていった。  その足取りは、来た時よりも十年分若返っていた。


 遠ざかる馬車の音を聞きながら、アリアがポツリと呟いた。


「ルシアン……あのクリーム、材料費はいくらなの?」 「全部で銅貨三枚ってところだな」


 私は肩をすくめた。  原価数十円のクリームが、国家権力をも動かす盾に化けたのだ。  錬金術師も裸足で逃げ出す等価交換の崩壊。


「さあ、店を閉めよう。明日は公爵家の紋章を掲げる記念日だ。……教会連中がどんな顔をするか、今から楽しみだな」


 私は夜空を見上げた。  雨はいつの間にか止み、雲の切れ間から月が覗いていた。  その月明かりすら、今の私にはスポットライトのように感じられた。

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