第6話廃油と灰で作った「ただの石鹸」を、限定生産の「聖女の秘薬」として貴族に売りつけた結果

雨が降っていた。  王都の商業区、その華やかな大通りから一本入った薄暗い路地裏。


 私、トーマス・グレイは、腐った木箱の上に立ち、はりにかけたロープを首に巻いていた。


「……終わりだ。何もかも」


 かつては、この通りに小さな雑貨店を構えていた。  だが、流行り病による物流の停滞、大手商会の圧力、そして最後は信頼していた共同経営者の持ち逃げ。  残ったのは、山のような借金と、空っぽの店舗だけ。


 妻は出て行った。友人も離れていった。  明日の朝には、借金取りのゴロツキたちが店を差し押さえに来るだろう。  奴らに捕まれば、鉱山奴隷として売り飛ばされるのがオチだ。


「……死のう」


 震える足で、木箱を蹴ろうとした。  その時だった。


「――おい。随分と安っぽい死に場所だな」


 不意に、背後から声をかけられた。  ビクリと身体を震わせ、振り返る。


 そこにいたのは、奇妙な二人組だった。  一人は、ボロボロの布を被った大男。  そしてもう一人は――不釣り合いなほど整った顔立ちをした、黒髪の少年だった。  見た目は十歳ほどだろうか。だが、その瞳は、大人の私ですら直視できないほどにくらく、冷徹な光を宿していた。


「な、なんだお前たちは……。邪魔をしないでくれ」 「邪魔? まさか。商談に来たんだ」


 少年は、私の首にかかったロープを指差して笑った。


「お前、どうせその命をドブに捨てるんだろ? なら、俺に売れよ。借金ごと買ってやる」


 ……は?  私は呆気にとられ、足元の木箱を踏み外しかけた。  この少年は、何を言っているんだ?


          


(サイド:ルシアン)


 廃業寸前の雑貨店の中。  埃を被ったカウンター越しに、私は震える男――トーマスを見定めていた。


 こいつは使える。  私の観察眼コールドリーディングがそう告げている。  身なりは小綺麗に整えられており、爪の間まで清潔だ。追い詰められてもなお、商人としての矜持プライドを捨てていない証拠だ。  私が欲しいのは、こういう「真面目すぎて馬鹿を見た」人間だ。


「それで……? 借金を肩代わりする代わりに、私の魂が欲しいと?」


 トーマスは、まだ半信半疑の顔で私を見ている。  私の背後には、護衛のガルフが腕組みをして仁王立ちしている。その威圧感もあってか、逃げ出そうとはしない。


「魂なんていらないさ。欲しいのは、あんたの『商人としての顔』と、この『店』だ」


 私は懐から、布に包まれた「ある物」を取り出し、カウンターの上に置いた。  ゴトリ、と重い音がする。


「開けてみろ」


 トーマスは恐る恐る布を解いた。  中から現れたのは――純白の固形物だった。  長方形に切り出され、表面は滑らかで、微かにラベンダーの香りが漂っている。


「こ、これは……何です? ロウですか? いや、この香りは……」 「石鹸だよ」 「石鹸!?」


 トーマスが素っ頓狂な声を上げた。  無理もない。  この世界にも「石鹸」はある。だが、それは動物の脂と灰を適当に混ぜて固めただけの、茶色くて臭い、泥のような代物だ。  洗浄力は弱く、肌は荒れ、洗濯に使えば服が黄ばむ。それが常識だ。


 だが、目の前にあるのは、雪のように白く、宝石のように美しい直方体。


「こ、これが石鹸……? 嘘だ、こんなに白くていい香りのする石鹸なんて……」 「嘘じゃない。俺が作った」


 私はニヤリと笑った。


 種明かしをしよう。  これは、《けん化反応(Saponification)》の産物だ。


 材料は二つ。  一つは、スラムの安酒場で捨てられる予定だった「廃棄ラード(動物性油脂)」。原価はゼロ。  もう一つは、暖炉から回収した「木灰」。これを水に溶かして煮詰め、上澄みを取れば、強アルカリ性の「灰汁あく」ができる。これも原価はゼロ。


 油脂とアルカリを混ぜて加熱すれば、化学反応が起きる。  油脂トリグリセリドが分解され、「脂肪酸ナトリウム(石鹸)」と「グリセリン」に変わるのだ。  ここまでは、この世界の職人も経験則でやっている。


 だが、ここからが私の「知識チート」だ。  私は、反応が終わったドロドロの液体に、大量の「塩」を投入した。  これを化学用語で《塩析(Salting out)》という。


 石鹸成分は塩水には溶けない。  そのため、塩を入れると純粋な石鹸分だけが白く固まって浮き上がり、不純物や色素、余分な水分が沈殿して分離されるのだ。


 結果、ゴミ同然の茶色い廃油から、純度99%以上の「純白の石鹸」が精製される。  コストは、微々たる燃料代と塩代だけ。  実質、タダだ。


「と、とんでもない……! こんな品質の石鹸、王族だって見たことがないはずだ!」


 トーマスの目が、商人のそれに変わった。  彼は白い石鹸を手に取り、興奮した口調でまくし立てる。


「これなら売れる! ボス、これを大量生産しましょう! 庶民でも買える価格……そう、銅貨数枚で売れば、飛ぶように売れます! 薄利多売でも、この王都の人口なら莫大な利益になりますよ!」


 私は、ため息をついた。  これだから、凡人は困る。


「馬鹿か、お前は」 「え……?」 「誰がそんな『安売り』をするかよ」


 私は石鹸をひったくった。


「いいか、トーマス。モノの価値ってのは、性能で決まるんじゃない。『誰が使っているか』と『いくらするか』で決まるんだ」


 私は人差し指を立てて、彼にビジネスの講義レッスンを開始した。


「これを銅貨で売れば、ただの『便利な日用品』で終わる。貴族たちは『平民が使う下品なもの』として見向きもしなくなるだろう」


 狙うのは、貴族と富裕層の夫人たち。  金が余って仕方がないが、肌の衰えや夫の浮気に悩んでいる有閑マダムどもだ。


「価格は、金貨一枚(約10万円)だ」 「き、金貨!? たかが消耗品に!?」 「高いからこそ、売れるんだよ」


 これは《ヴェブレン効果(Veblen Effect)》と呼ばれる心理現象だ。  ブランド品や宝石がなぜ売れるのか?  それは「高いから」だ。  富裕層にとって、高額な商品を買うことは「自分の財力と地位を誇示する(顕示的消費)」行為そのものになる。  逆に、安ければ「価値がない」と判断されるのだ。


「そして、売り文句はこうだ。『材料に聖なる薬草を使っているため、月に十個しか生産できない』」 「……え? でも、材料は廃油と灰ですよね?」 「客には関係ない事実だ」


 私は冷たく言い放つ。


 これは《希少性の原理(Scarcity Principle)》だ。  「残りわずか」「期間限定」「会員限定」。  人間は、手に入りにくいものほど価値が高いと錯覚し、何としてでも手に入れようとする。  原価ゼロのゴミを、希少価値という魔法でコーティングし、暴利で売りつける。  これこそが、宗教とブランドビジネスの正体だ。


「これはただの石鹸じゃない。『過去の罪と穢れを洗い流し、処女のような肌を取り戻す、聖女の秘薬』として売るんだ」


 トーマスは、口をパクパクさせていた。  理解が追いつかないようだ。  百聞は一見にしかず、か。


「アリア、入れ」


 私が呼ぶと、店の奥からフードを被った少女が入ってきた。  彼女はトーマスの前でフードを脱いだ。


 ――場が、輝いた気がした。


 磨き上げられた銀髪。  スラムでの栄養失調から回復し、私の作った石鹸で毎日手入れされた肌は、陶器のように白く、透き通っている。  この世のものとは思えない美貌。


「あ……」


 トーマスが見惚れて固まる。  アリアは無表情のまま、桶の水で手を濡らし、石鹸を泡立てた。  きめ細かい、ホイップクリームのような泡が立つ。  その泡に包まれた彼女の手は、実に神々しく見えた。


「どうだ、トーマス。この肌になりたいと思わない女が、この街にいると思うか?」


 私の問いに、トーマスはハッと我に返った。  そして、ゴクリと唾を飲み込む。  彼の目には、もう迷いも、死への願望もなかった。  あるのは、目の前の「金脈」への渇望と、それを生み出した私への畏怖だけ。


「……ボス。いや、ルシアン様」


 トーマスはその場に膝をつき、頭を垂れた。


「私の命、貴方に預けます。……この『悪魔の石鹸』で、貴族どもから金を巻き上げてやりましょう」


「いい返事だ」


 私は満足げに頷き、石鹸を彼の前に放った。  トーマスはそれを、聖遺物のように恭しく受け止める。


 これで、商業区への橋頭堡きょうとうほは築けた。  「教団」の資金源となるフロント企業、その誕生だ。


 私は店の窓から、雨上がりの王都を見上げた。  貴族たちが住む一等地の屋敷。  今に見ていろ。  お前たちのプライドごと、この白い泡で飲み込んでやる。


「さあ、忙しくなるぞ。まずは『会員制』の名簿作りからだ」


 私の号令に、ガルフがニヤリと笑い、アリアが静かに頷き、トーマスが帳簿を開いた。  国崩しのための経済侵略が、今、始まった。

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