第8話

 紫藤 達夫しどう たつおは軒下で靴の泥を払い終え、立ち上がった。家に入る最中、小さな呻きが漏れた。腰に響く秋だが、今日はまだやるべきことがある。


 書斎に向かい、資料を漁る。資料といってもまともな文献はなく、ほとんどが手書きのファイルだ。背表紙代わりのシールはボロボロで、老いた目にはキツい。


 今日、ゆうちゃんが友達ともだちを連れてくる。巳津多様のことを聞きたいらしい。


「……ふぅ」


 巳津多様、か。達夫は亡くした妻を思う。都会の出で、地元の信仰にたいそう興味を示していた。本棚いっぱいを埋め尽くす資料もほぼ全てが妻の研究成果だ。妻が死んでからは見返すこともなかったが、まさか、こんな形で役立とうとは。


(これも神の……なんだろうな)


 達夫は自嘲した。友達は従姉妹を失ったと聞いていた。きっと、それすらも。



◇ ◇ ◇



 生活感を残した客間。木の形をそのまま残したテーブルを挟み、琢磨と祐一、そして達夫は向かい合っていた。


「巳津多様について教えて下さい」


 琢磨が挨拶もそこそこに切り出すと、達夫は重々しく頷き、一冊のファイルを開いた。


「巳津多様はここら一帯に代々伝えられてきた蛇の神だ。この山の全てを司り、善きも悪きも、起きることは全て巳津多様の思し召しとされている」


 達夫の指先がページをめくっていく。古いものだからかビニールが互いに張り付いていて、何度か剥がす手間が掛かった。琢磨はその間も注視していた。膨大な聞き込み記録が細かな文字でびっしり書き起こされている。


「ただ、まあ。君はそんな歴史に興味はないだろうね」


「そんな」


「構わないよ。大まかな話はさっきゆうちゃんから聞かせてもらった」


 琢磨は祐一を見た。祐一は頷いた。


「肝心なのはそう、この神が祟り神タタリガミだということだろう」


「祟り……」


 思わず呟く言葉に、あの夜の光景が蘇る。


「巳津多様の怒りを買ったものは、無数の蛇によって神のみもとへと招かれる」


「神の、みもと……ですか?」


「ああ。そう言われている。本当のところは分からないがね」


「分からない?」


「死後の世界を語れないのと一緒さ」


 祐一が口を挟んだ。


「行ったものはもう語れない。だから俺たちはそう呼ぶしかない」


「え……?」


 信じ難い言葉に、琢磨は食って掛かった。


「帰ってこなかったんですか? 誰も!? なら、三咲は……」


「落ち着け」


「でも! それなら」


「落ち着けって!」


 二人は言い争った。


「ただ」


 重々しい声。老人にしか出せない凄みを帯びた声だった。二人は達夫を見た。


「一人だけ、神のみもとから帰ってきたものがいる。……消えていた間のことは、覚えていなかったそうだがね」


「それは……どんな人だったんですか?」


 琢磨が尋ねると、達夫は資料をめくる。古びた肖像画が貼り付けられたページだ。


「この辺りの代官だそうだ。酷く横暴な男でね。毎年のように年貢を上げては、納められぬ家を荒らした」


「家を?」


「見せしめのようなものだろうね」


 琢磨は資料に目線を落とす。そこには口に出したくもないような『横暴』が事細かに記録されていた。


「その彼がある時、巳津多様の像を持つ家を標的に選んだわけだ。像を砕き、恐れる住民を嘲笑い――そこから記述は途絶える」


「連れて行かれた……」


「その通り」


 達夫は頷き、続けた。


「だが君が体験した通り、その存在は消えずに影は残った。代官という役職に『彼』が居続けたこともまた記録に残っている」


「彼はどうやって戻ってきたんですか?」


 うん、と達夫はファイルを閉じ、2冊目を開く。


「言い伝えによれば、こうだ。代官には3人の従者がいた。1人は周囲との不和に耐えきれず、自害した。2人は自分も同じ目に遭うのではないかと恐れ、逃げ出した。そして、3人目」


 達夫はぴらりとめくる。


「従者は地域の長老に協力を仰いだ。長老はそれが巳津多様の怒りだと伝え、それを鎮めるようにアドバイスした。従者は巳津多様の社に出向き、誠心誠意、主人の蛮行を詫びた」


「ええ」


「そして言葉が届いたのか、代官は再び姿を現した」


「……え?」


 琢磨は耳を疑った。


「あの。……それだけ、ですか?」


「ああ」


「謝れば帰ってくるって、それじゃあ……」


「だが、だ」


 祐一は釘を刺す。


「さっきの話、聞いてたよな? 帰ってきたのはその代官だけなんだ」


「……どうしてなんでしょうか」


「それについては不明だ」


 達夫がページをめくりつつ言った。


「このファイルには似た事例がたくさん記録されている。巳津多様に身内を連れて行かれたものはみな、なんとかして怒りを鎮め、身内が帰ってくることを願う」


「当然でしょうね」


 琢磨が頷くのを、祐一は静かに見ていた。


「だが、誰も取り戻せなかった」


「……何が違ったんでしょう」


 達夫は黙り込む。琢磨にも当然答えは出そうにない。すると祐一が口を開いた。


「これは仮説だが」


「え?」


「被害者の身元が鍵になった。……俺はそう思っている」


「身元……代官ってことですか?」


 違う、と祐一は首を横に振る。


「そいつらは山の外の人間だったってことだ」


「山の、外……?」


 琢磨は首を傾げた。それとこれといったい何の関係がある? しかし達夫は得心したようだった。

「なるほど。理屈は通っているな」


「でしょう?」


「あの、俺にも分かるようにお願いします」


「つまりさ。山の外の人間は巳津多様の所有物じゃないんだ」


 この山の全てを司る――そんな言葉が琢磨の脳裏に過る。


「だからその怒りは弱かった。謝罪で済ませてもらえるほどにな」


「確かにその他の事例はみな、この山で暮らすものたちだ」


「仮説ですけどね」


「ええっと」


 琢磨は話の流れを引き戻す。


「結局、その。三咲の場合……三咲は山の外の人間ですよね?」


「俺に聞くなよ」


 祐一は呆れたように言った。琢磨は記憶の糸をたどる。三咲が山生まれなんて話は聞いたことがない。親戚の集まりでも、少なくとも話題に上ったことはない。……はずだ。


「なら、俺は――」


「お社に行き、そのストラップの件を謝罪する」


 達夫はきっぱりと言った。


「それで、三咲が帰ってくる……?」


「あくまで可能性だ」


 祐一が付け加えたが、琢磨には聞こえていなかった。


 三咲が消えた。無数の蛇に覆われ、消えた。悍ましい光景に、まともに寝付くこともできなかった。ここに来る時も、それなりの危険は覚悟していた――つもりだった。それが、こうも簡単に? 喜ばしい反面、拭えない違和感があった。


「……宮地くん?」


「あっ、はい?」


 慌てる琢磨に、祐一は続けた。


「とにかく、そういうことだから。すぐに試しに行こう」


「え。……今からですか?」


 ここに来る前から空は暗くなり始めていた。


「必要なものも持ってきたし。時間が経てば帰ってこなくなる、なんて可能性もあるだろ?」


「ま、まあ……」


 琢磨は妙な強引さに戸惑った。だが、巳津多様について他に情報源はない。三咲が消えたのが巳津多様の仕業であることは、状況の符合からしても間違いないはずだ。


「紫藤のじいちゃん、話をありがとうな。それじゃ!」


 祐一は振り向かなかった。琢磨は両者の間に視線を彷徨わせた。だがすぐに祐一の後を追った。


「お、お世話になりました!」


「ああ、気を付けて」


 達夫は外に出て、二人の後ろ姿を見送った。彼はやがて目を伏せ、静かに家へと帰っていった。

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