本
別に、目的があったわけじゃない。
ただ、足が自然とそちらに向いた。長谷川の言葉と、矢島さんの話が、頭の中でぐるぐると回っていたからかもしれない。
文芸書のコーナー。
平積みにされた本の中に、見覚えのある名前があった。
古賀麗奈。
彼女の本は、いつも目立つ場所に置かれている。
売れっ子作家だから当然だ。デビューから三年で、もう五冊も本を出している。どれも評価が高い。業界でも「天才」と呼ばれている超注目株。
僕は今まで、このコーナーを避けてきた。
古賀の名前を見るだけで、胸がざわつくから。彼女の成功を目にするたびに、自分の惨めさを突きつけられる気がするから。
でも、今日は違った。
長谷川の言葉が、頭に残っている。
「あの小説の主人公、お前に似てる」
気になる。
読みたいような、読みたくないような。
夕暮れの彼方。
その本は、すぐに見つかった。去年出版されたのに、まだ平積みになっている。帯には「重版出来」「アニメ化決定」の文字。売れ続けているのだろう。
手に取る。
シンプルな装丁。白い表紙に、オレンジ色のグラデーション。夕焼けを思わせるデザインだった。彼女らしい、と思った。派手さはないが、どこか心に残る。
裏表紙を見る。あらすじが書いてあった。
「夢を諦めた青年と、夢を叶えた女。
二人は高校時代、同じ夢を追いかけていた。
しかし、残酷な才能の差が、二人を引き裂いた。
これは、夕暮れに沈んだ青春の、その先の物語」
手が、震えた。
これは、僕と古賀の話じゃないのか。
少なくとも、そう読める。
偶然の一致。そう思いたかった。
でも、長谷川の言葉が否定する。「設定がまんまなんだよ」と。
レジに向かうかどうか、迷った。
読めば、何かが変わってしまう気がする。今まで蓋をしてきた過去が、溢れ出してくる気がする。
でも、読まなければ、何も始まらない。
それに、仕事で彼女の作品に関わるかもしれないのだ。読んでおくべきだろう。
そう自分に言い訳をしながら、僕は本を持ってレジに向かった。
会計を済ませ、本を紙袋に入れてもらう。
店を出て、駅に向かう。
紙袋の重さが、腕から直接心臓に伝わってくる。たった一冊の本。なのに、まるで過去のすべてを詰め込んだ鉛のように重い。
耳の奥で、あの音がリフレインする。
「っち」 ノイキャンを貫通したあの拒絶の音。
五月の夕焼けを凍らせた、あのたった一音。
電車に乗り、座席に座る。
紙袋から本を取り出そうとして、やめた。
ここで読む勇気がなかった。
人前で、感情が乱れるかもしれない。そんなのは嫌だった。
家に帰ってから読もう。
そう決めて、僕は本を鞄の中にしまった。
帰宅したときはもう外は真っ暗だった。
シャワーを浴びて、適当に夕食を済ませる。コンビニで買った弁当。味はよくわからなかった。
ベッドに横になり、鞄から本を取り出す。
読むか。今日こそ読もう。
そう思って、ページを開こうとした。
でも、手が動かなかった。
怖い。
何が書いてあるのか、怖い。
僕のことを、どう書いたんだろう。
夢を諦めた、惨めな男として描いたのか。
それとも、別の何かとして。
読めばわかる。
でも、読む勇気がない。
僕は本を閉じて、枕元に置いた。
明日にしよう。明日、時間があるときに読もう。
そう自分に言い聞かせて、目を閉じた。
眠れなかった。
頭の中で、古賀の顔がちらついていた。あの冷たい目。舌打ちの音。
「っち」
あの日、電車で再会したときの一音が、耳に残っている。
彼女は、僕を見て舌打ちをした。
それはつまり、僕のことを嫌っているということだ。憎んでいるということだ。
当然だろう。
僕は彼女を傷つけた。あの日、一方的に夢を諦めると告げて、彼女の前から消えた。
でも、彼女だって僕を傷つけた。
「勝手にしなさい」
あの冷たい一言が、僕の心を完全に折った。
お互い様だ。
お互いを傷つけ合って、そのまま別れた。
だから、今さら彼女の小説なんて読んでも、何も変わらない。
過去は過去だ。掘り返しても意味がない。
そう思おうとした。
でも、枕元に置いた本の存在が、気になって仕方なかった。
ああ、久しぶりに見る彼女がいた。でも、すれ違いざまに僕は舌打ちされた。 あーる @a-ru_a-ru
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