大学
月曜日。
僕はいつものように、満員電車に揺られていた。
吊り革を掴むスーツ姿の群れの中で、僕のカジュアルな服装だけが浮いている。大学生という特権。あるいは、どちらの世界にも属しきれない中途半端な自分への証明書か。
今日は収録はない。でも、打ち合わせがある。午後から、制作会社で。
電車の中で、スマホを開いた。
小川さんからのメッセージが、また届いていた。
「おはよー! 今日も一日頑張ろうね!」
毎朝、彼女はこういうメッセージを送ってくる。
最初は戸惑ったが、今はもう慣れた。返信は必ずしている。それが礼儀だと思うから。
「おはようございます」
それだけ送信して、スマホをポケットにしまった。
僕と彼女のトーク履歴は正直、見てられない。
電車が駅に着く。僕は人波に押されながら、ホームに降りた。
大学の最寄り駅。今日は午前中だけ授業がある。午後の打ち合わせまでに、レポートを少し進めておきたい。
改札を出て、大学へ向かう。
気温はちょうどいい。歩いていると、少し汗ばむ程度。
キャンパスに着くと、学生たちが三々五々歩いている。
授業に向かう者、友達と談笑する者、ベンチで本を読む者。平和な光景だ。
僕は、その光景を眺めながら、校舎に向かった。
教室に入ると、まだ人はまばらだった。
僕は窓際の席に座り、ノートパソコンを開いた。レポートのファイルを開く。
テーマは「現代メディアにおける声の役割」。
皮肉なことに、仕事に関係するテーマだった。教授は僕の仕事を知らないから、偶然だろうが。
キーボードを打ち始める。
しかし、集中できなかった。
頭の中には、昨日の長谷川の電話が残っていた。
アイツの新作。「夕暮れの彼方」。僕に似た主人公。
気になる。
読みたいような、読みたくないような。
そんな複雑な気持ちだった。
「ねえねえ」
横から声をかけられて、僕は顔を上げた。
そこには見知らぬ女子学生が立っていた。
いや、見知らぬわけじゃない。同じ学部の学生だ。何度か見かけたことがある。
「ここ、空いてる?」
彼女は僕の隣の席を指差した。
「ああ、空いてる」
「ありがと」
彼女は僕の隣に座り、カバンを置いた。
茶色い髪をポニーテールにまとめた、明るい雰囲気の女の子。名前は……何だったか。
「私、宮野。宮野あかり」
「……佐藤」
「知ってる。いつも一人でパソコン叩いてる人でしょ」
見られていたのか。
少し気まずい。まぁでもどうせ大学の人たちにどう思われるかは関係ないか。
「何書いてんの? レポート?」
「まあ、そんなとこ」
「へー、真面目だね」
彼女は、自分のノートを取り出しながら言った。
僕は適当に相槌を打って、パソコンに視線を戻した。
集中したい。でも、隣に人がいると、なんとなく落ち着かない。
「ねえ」
「……何」
「お昼、一緒に食べない?」
突然の提案だった。
僕は少し考えてから、「午後から用事があるから」と答えた。
「そっか、残念。じゃあ、また今度ね」
彼女はあっさり引き下がった。
それから授業が始まり、僕たちは別々にノートを取った。
変な人だな、と思った。
いきなり話しかけてきて、昼食に誘ってくる。人見知りとは無縁の性格らしい。
でも、どうしてか嫌な感じはしなかった。
授業が終わると、そのまま電車に乗った。制作会社のビル。
僕は会議室で、次週の収録について打ち合わせをしていた。
出席者は三人。ディレクターの矢島さん、アシスタントディレクターの女性、そして僕。
「来週のゲスト、決まったぞ」
矢島さんが、資料を配りながら言った。
「誰ですか」
「桜庭つむぎ。知ってるか?」
誰だ。正直、聞いたことがない名前だった。
「すみません、知らないです」
「今年デビューしたばかりの新人声優。小川と同じ事務所だ」
小川さんと同じ事務所。
つまり、後輩ということか。
「番組の見学も兼ねて、ゲストとして出てもらう。将来的には、アシスタント的なポジションでレギュラー化も考えてる」
なるほど。番組のテコ入れというわけか。
ゆきふわラジオは人気番組だが、マンネリ化を防ぐために新しい要素を入れたいのだろう。
「小川さんは、何て言ってますか」
「喜んでたよ。後輩の面倒見られるって」
そうだろうな、と思った。
小川さんは、そういう人だ。後輩の世話を焼くのが好きなタイプ。
というか、先輩ヅラというか、自分が大人っぽく見られるのが好き。
実際はあんなだからな。
「構成は、どうしますか」
「とりあえず、フリートークを多めに。桜庭の人となりを視聴者に知ってもらいたいから」
「わかりました」
僕はメモを取りながら、頭の中で構成を組み立て始めた。
新人声優のゲスト回。ポイントは、彼女の魅力をいかに引き出すか。
小川さんとの掛け合いで、キャラクターを立てる。緊張をほぐしつつ、素の部分を見せてもらう。
彼女に関する情報がもう少しあればがいいが……パソコのウェブサイトを開いても何もない。どういう人なのかすら見えてわからない、その状態でラジオか。
正直、難しいが、面白い仕事かな。そう言い聞かせた。
「あと、もう一件」
矢島さんが、別の資料を取り出した。
「新番組の件。古賀麗奈の小説のアニメ化」
その名前を聞いて、僕は身構えた。
業界では評判だった。
まだ表には出てない。彼女の作品のアニメ化。
新作を出す時点ですでに裏で決まっていて、とある大手製作会社が単独出費しているらしい。アニメ業界では珍しい、製作委員会を取らないやり方。よっぽど当てる自信があるのだろう。
「お前、構成やってくれるか」
「……僕ですか」
「ああ。お前の構成、評判いいからな。原作サイドからも推薦があった」
原作サイド。つまり、古賀麗奈本人か、その関係者か。
どういうことだ。なぜ、僕を指名する。
たかが大学生だぞ。会社の命運がかかっているようなのに任せていいのか。
「考えさせてください」
「いつまで?」
「今週中には」
「わかった。でも、できればやってほしい。お前しかいないと思ってる」
矢島さんの言葉は、素直に嬉しかった。
でも、素直に受け取れない事情がある。
打ち合わせが終わり、僕は会議室を出た。
廊下を歩きながら、考える。
古賀の作品に関わる。
それは、彼女と再び接点を持つということだ。
あの日以来、僕は彼女を避けてきた。
同じ業界にいながら、意図的に距離を取ってきた。
彼女の存在はずっと知っている。
ずっと業界の話に出てくる。嫌でも意識させられてきた。
それでも知らないフリをし続けた。
それは彼女が文学で、僕はアニメ。しかも、ラジオ。同じ業界でも、どこか遠くにいたから――。
でも、もう逃げられないのかもしれない。
仕事として、向き合わなければならないのかもしれない。
僕は、空を見上げた。
夕方の空。オレンジ色に染まり始めている。
夕暮れの彼方。
古賀は、何を書いたんだろう。
帰り道、僕は本屋に寄った。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます