休みの日

 週末。日曜日の朝。

 僕は自室のベッドで、見慣れた天井を見つめていた。予定はない。仕事もない。

 これもまた見慣れた静寂だ。


 普段は救いであるはずの空白が、今日に限っては僕を追い詰めてくる。


 金曜日の夜のことが、まだ頭から離れない。

 小川さんの言葉。「好きだから」。

 あの直球な告白を、どう受け止めればいいのかわからなかった。


 スマホを手に取る。

 小川さんからのメッセージが届いていた。昨日の夜に送られてきたものだ。


「今日は楽しかったね。また一緒にご飯行こうね」


 絵文字付きの、明るいメッセージ。

 あの告白の後で、よくこんな普通のメッセージを送れるものだ。彼女のメンタルの強さには感心する。


 僕は返信を打った。


「お疲れ様でした」


 それだけ送って、スマホを枕元に置いた。

 素っ気ないと思われるかもしれない。でも、これ以上の言葉が見つからなかった。


 ベッドから起き上がり、窓を開ける。

 五月の風が部屋に流れ込んできた。気持ちいい。


 今日は何も予定がない。

 珍しく、仕事も入っていない。大学のレポートはあるが、まだ締め切りまで余裕がある。


 こういう日は、何をすればいいのかわからなくなる。

 普段は仕事に追われていて、考える暇がない。それが、ある意味で救いだった。何も考えなくて済むから。


 でも、今日は違う。

 時間がある。だから、考えてしまう。


 小川さんのこと。

 古賀のこと。

 そして、自分自身のこと。


 パソコンを開いて、ネットニュースを眺める。

 芸能ニュースのページに、小川さんの名前があった。


「人気声優・小川雪、新作アニメの主演に決定」


 記事を読む。

 来年放送予定のオリジナルアニメ。彼女が主人公の声を担当するらしい。制作は大手スタジオ。かなりの大作だ。


 彼女は、どんどん高みに登っていく。

 僕なんかが追いつけるような場所じゃない。


 そう思った瞬間、自分の卑屈さに嫌気が差した。


 追いつくとか、追いつけないとか、そういう話じゃない。

 そもそも、僕は彼女と競争しているわけじゃない。


 でも、じゃあ何なんだ。

 僕と彼女の関係は、一体何なんだ。


 仕事仲間。構成作家とパーソナリティ。

 それ以上でも、それ以下でもない。


 彼女が「好き」と言ってくれても、僕がそれに応える理由はない。

 応えてはいけない理由の方が、山ほどある。


 立場の違い。

 世界の違い。

 僕の過去。


 特に、過去のことを考えると、胸が苦しくなる。

 古賀麗奈。あの冷たい目。いきなりの舌打ち。


 僕は一度、夢を諦めた人間だ。

 才能のある人間の隣に立つ資格なんて、ない。


 小川や古賀、"ホンモノ"の彼女たちと僕は違うのだ。

 ベッドに寝転がりながら、天井を見つめ続ける。


 そのとき、スマホが鳴った。

 電話だ。画面を見ると、「長谷川」と表示されている。


 高校からの友人、長谷川颯太。

 彼とだけは、今でも定期的に連絡を取り合っている。


 なんか憎めない。そんなやつだ。


「もしもし」

「おう、佐藤。今大丈夫か?」

「ああ、大丈夫」

「よし。ちょっと話したいことがあってさ」


 長谷川の声は、いつもより真剣だった。


「何だ、改まって」

「お前、最近どうなの。仕事」

「普通だよ。忙しいけど」

「そうか。……あのさ」


 少し間があった。


「古賀麗奈の去年だした小説、読んだか?」


 その名前を聞いて、僕は箸を止めた。


「……読んでない」

「そうか。まあ、読まなくてもいいけどさ」

「何だよ、急に」

「いや、ちょっと話題になってるからさ。お前のことかなって思って」


 僕のこと。

 どういう意味だ。


「どういう意味だ」

「いや、あいつの小説の主人公。夢を諦めた青年なんだけど、設定がお前に似てるなって」


 心臓が跳ねた。


「……読んでないからわからない」

「だよな。まあ、偶然かもしれないし。気にしなくていいと思うけど」


 気にするなと言われても、気になる。

 古賀が、僕のことを小説に書いている?


「あのさ、長谷川」

「ん?」

「その小説、なんてタイトル?」

「『夕暮れの彼方』ってやつ。結構売れてるみたいだぞ」


 夕暮れの彼方。

 夕暮れ。あの日の、夕焼けを思い出す。


「……そうか」

「どうする? 読んでみるか?」

「……考える」

「おう。まあ、無理に読まなくてもいいと思うけどな」


 長谷川は、僕と古賀の過去を知っている。

 高校時代、僕らが何を目指していたか。そして、何があったか。全部知っている。


「あとさ、佐藤」

「何だ」

「お前、最近ちゃんと生きてるか?」


 妙な質問だった。


「生きてるよ。見ての通り」

「見てねえよ、電話だから」

「……それもそうだな」


 長谷川が笑った。僕も少し笑った。


「今度、飯でも行こうぜ。久しぶりに」

「ああ、そうだな」

「じゃあ、また連絡する」

「おう」


 電話を切った。


 テーブルの上には、冷めかけたカップ麺。

 僕はそれを見つめながら、古賀のことを考えていた。


 夕暮れの彼方。


 長谷川がわざわざ電話をしてまで来た。


 彼女は、何を書いたんだ。


 読むべきか、読まないべきか。

 その答えは、まだ出ない。

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