5話「豹変」

熊本の空は夕焼けで赤く染まり、家に戻ると玄関には俺と月猫の靴だけが並んでいた。


父さんは仕事で帰りが遅い。千鶴さんも近所のスーパーへ買い物に出かけていて、今は俺たちだけだ。


「……静かだな」


思わずつぶやくと、リビングに入った月猫がソファへ腰を下ろした。制服のまま、細い足を揃えて座っている姿は、学校で見せたあのクールな雰囲気そのままだ。

俺は以前買っていた大量のラノベが入ったダンボールの整理を続けようと荷物に手を伸ばした。けれど、不意に月猫の視線を感じて顔を上げる。


「……なに?」


「別に」短く返す。だが、ほんの少しだけ頬が膨らんで見えた。(……?)


昼間の月猫は、周囲を寄せつけないような冷たささえ漂わせていたのに。今はどこか拗ねている子供みたいだ。


「手伝おうか?」

「いいよ。あんた、手際悪そうだし。」

「えぇ……」


返事とは裏腹に、月猫は立ち上がり、俺の隣にしゃがみ込んだ。長い黒髪が肩からふわりと垂れ、少しだけシャンプーの香りが漂ってくる。


「これはどこに置くの?」

「えっと、それは本だから二階の俺の部屋に」

「……じゃあ、一緒に行こ」


さらりと告げられて、俺は思わず固まった。

学校であんなに冷たく男子をあしらっていた月猫が、自分から「一緒に」と言うなんて。


二階へ向かう階段を並んで上がる。肩が触れそうな距離感に、なぜか心臓がやけにうるさくなる。


部屋に入ると、月猫は段ボールを置いて、辺りをじっと見渡した。

「ふーん。白狼くんの部屋って、意外と普通」

「普通ってなんだよ」

「ほら、もっと漫画とかポスターとかで散らかってると思ったの」

「それは偏見だろ」

思わず笑うと、月猫はむっとした顔をしたが、その口元は少し緩んでいるように見えた。


「ねえ、白狼くん」

「ん?」

「……ここで一緒に過ごすの、なんか変な感じ」


ぽつりと呟く声は、学校での鋭い口調とはまるで違って柔らかい。

俺が何と返すべきか迷っていると、月猫は不意に俺の袖をつまんできた。


「ちょ、月猫……?」

「だって、慣れないんだもん。熊本も、新しい家も、クラスも」


普段は堂々として見えるのに、その声には心細さが滲んでいた。

「……東京にいたときは、こんなふうに不安になることなかった。でも、ここじゃ全部が新しい。……だから、ちょっとくらい甘えてもいいでしょ?」

そう言って、彼女は俺の肩に額をこつんと押しつけた。


「えっ」

「……しばらく、このまま」

黒髪が頬に触れて、くすぐったい。

(うそだろ……学校であれだけクールだった月猫が……?)

心の中で叫びつつも、彼女のかすかな体温を感じると、強く突き放すこともできない。


「……白狼くんって、意外と頼りがいあるんだね」

「いや、俺何もしてないけど」

「してるよ。そばにいてくれるだけで」

月猫の声はどんどん甘くなる。

昼間の彼女を知っている俺には、まるで別人にしか思えなかった。

やがて月猫は俺の袖を離し、ソファに座り直した。だが、目元にはうっすらと赤みが残っている。


「……いまのこと、学校のみんなには絶対言わないで」

「は?」

「だって恥ずかしいじゃない。あのイメージが崩れるでしょ」

「いや、そっちが本当の顔なんじゃ……」

再度立ち上がり、「違うよ〜」


月猫はとろ〜とまるで猫にが擦り寄るように近づいてきた。

「でも、まあ……白狼くんなら、特別に見せてもいい」

最後に小さな声でそう呟くと、月猫は再びそっぽを向いてしまった。


―この瞬間、俺は確信した。

学校での月猫と、家での月猫は、まるで別人だ。

クラスの連中が憧れているクールな花咲月猫。

そして俺の前でだけ、甘えん坊になる月猫。


「……え、ほんとに同一人物!?」

思わず口から漏れた言葉に、月猫はクッションを投げながら叫んだ。

「聞こえてるから!」


その照れた顔を見て、俺は心の奥が妙に温かくなるのを感じた。

新しい日常は、こうして少しずつ形を変えていくのだろう。

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