第21話:夜明けの余韻、桜の下の約束
崩壊した塔の窓から差し込む朝の光は、あまりにも白く、そして優しかった。つい先ほどまでこの場所を支配していた重油の鼻を突く匂いは霧散し、代わりに、春の嵐が運んできたような花の甘い香りが広間を満たしている。それは、神域が帝国による「静止」の呪縛から解き放たれ、再び呼吸を始めた証だった。
「……終わったのね、本当に」
ミラが、石像のように固まっていた体をゆっくりと解き、その場にへたり込んだ。彼女の頬には死人のような蒼白さが消え、朝日を浴びて健康的な、そして少しだけ照れくさそうな赤みが戻っている。
「……フン。貴様の奏でる音がうるさすぎて、寝ている暇もなかったぞ」
ナギはそっぽを向きながらも、口元には隠しきれない満足げな笑みを浮かべていた。命を削って放った『昇龍・水禍断絶』の代償は小さくないはずだが、その瞳にはかつての絶望の影はない。
アラタは、熱を帯びた『桜雷』をそっと傍らに置いた。手のひらにはまだ、バルバトスの核を貫いた瞬間の「本当の音」の残響が残っている。世界が再び「時間」と「音」を取り戻したこの瞬間を、彼は全身の肌で感じていた。
「アラタさま……」
光の鎖から解放され、地上へと舞い降りたサクヤが、静かに歩み寄ってくる。彼女の姿は、以前よりもずっと鮮明で、瑞々しい輝きを放っていた。サクヤはアラタの前に立つと、慈しむように彼の煤けた頬に手を伸ばした。
「ありがとうございます。あなたの音が、この森を、そして私の心を見つけてくれました」
サクヤの指先からは、木漏れ日の粒子のような温かな癒やしが伝わってくる。アラタは、戦いの中で張り詰めていた心の弦が、ふわりと緩むのを感じた。
「……さあ、戦士の皆さま。ささやかですが、休息の準備をいたしましたわ」
神木の根元、満開の桜が天蓋(てんがい)のように広がる広場に、一行は集まっていた。サクヤが魔法のように用意したのは、森の神気が凝縮された特製の『桜茶』と、透き通る水で淹れた滋味あふれるスープだった。
「わあぁ……! おいしそう! サクヤ、これ全部食べていいの!?」
ミラが尻尾を激しく左右に振りながら、身を乗り出す。
「ええ、ミラさん。あなたの勇敢な戦いぶりが、この森の生命(いのち)を繋ぎ止めたのですから」
サクヤが微笑むと、ミラは「えへへ」と鼻を鳴らし、アラタの隣を陣取ってスープにかぶりついた。その様子は、戦場で見せた黄金色の野性とは正反対の、年相応の少女の姿だった。
「……悪くない。龍の都の雫にも勝るとも劣らぬ、清らかな味だ」
ナギは、上品に器を持ちながらも、何度もスープをおかわりしている。
「ほらナギ、そんなに急がなくても誰も取らないよ」
アラタが苦笑すると、ナギは少しだけ顔を赤くし、
「……余計なお世話だ。栄養を補給せねば、次の旅路に障るだろう」
と不器用な強がりを見せた。
アラタは、温かい桜茶を一口含んだ。それはかつて廃棄都市で啜っていた油臭い水とは全く違う、魂の奥まで洗い流されるような、清らかな鈴の音に似た味わいだった。
ふと、アラタの膝の上に、小さな重みを感じた。
「アラタ、アラタ! わらわの分もあるのかえ!?」
いつの間にか現れたワラシが、アラタの胸元をぐいぐいと押し、桜茶を欲しがっている。
「分かったよ、ワラシ。……はい、どうぞ」
アラタが小さな器に茶を分けてやると、ワラシは上機嫌に
「これぞ幸運の極みじゃ!」
とはしゃぎ始めた。
周囲には、かつて聞こえていた規則的な歯車の回転音も、金属が擦れる不快な音も、もうどこにもない。聞こえるのは、風が葉を揺らす音、仲間たちの笑い声、そして神木が奏でる穏やかな歌のような旋律だけだ。
「アラタさま」
サクヤが、アラタの隣に静かに腰を下ろした。彼女の肩がアラタの肩と触れ合い、柔らかな温もりが伝わってくる。
「私はずっと、あの中(塔の炉心)で凍えていました。けれど、あなたの槌が響くたび、私の心に少しずつ春が戻ってくるのが分かったのです」
サクヤは、アラタの手をそっと自分の手で包み込んだ。
「……これからは、もう独りではありませんわ。この森が、そして私が、あなたの旅の音色をずっと守り続けます」
アラタは、繋いだ手の温もりを確かめるように、少しだけ力を込めて握り返した。 「……ありがとう、サクヤさん。僕も、君の歌をずっと守るよ」
朝日は次第に高くなり、神域全体を黄金色に染め上げていく。戦いの傷跡はまだ残っている。けれど、この桜の下で交わされた約束と、分かち合った温かな時間は、これから始まる長い旅路の、何よりの道標(みちしるべ)になるはずだ。
アラタたちは、ひとときの「ご褒美」を存分に味わい、次なる『水の都』への希望を、その胸に深く刻み込んでいた。
神鳴の共鳴(シンクロニシティ) ―機鋼帝国ゼノフィアと八百万の祈り― amya @Amyao
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