第19話:静止する世界、鉄の断罪
『虚無の穿孔塔』の内部を上層へ向かうにつれ、空気はその重みを増していった。壁面を走る霊的パイプからは、無理やり吸い上げられた神々の力が、金属が擦れる不快な音と共に脈動し、時折、過負荷に耐えかねたバルブが蒸気の噴射音(プシューッ!)を上げ、熱い霧を吹き出している。
「……息が、苦しい。ここは、命があるべき場所じゃないわ」
ミラが胸を押さえ、険しい表情で呟いた。彼女の野性的な嗅覚は、この場所に充満する死んだ霊力の澱み――重油の鼻を突く匂いと、何かが絶えず焼けている焦げたゴムの臭いを拒絶していた。
螺旋階段の最上段、重厚な隔壁が左右に開く。そこは、塔の心臓部。巨大な歯車が複雑に組み合わさり、規則的な歯車の回転音が耳を圧する大広間だった。広間の中心、天を衝く炉心の前に、その「山」は立っていた。
鈍色の装甲に包まれた、三メートルを超える巨躯。機鋼将軍バルバトス。彼がゆっくりとこちらを振り向いた瞬間、大気が物理的な重圧を伴ってアラタたちを押し潰そうとした。その一歩一歩が、冷酷な進軍の足音となって床の鉄板を悲鳴を上げさせる。
「――来たか。世界を不確定な揺らぎへと戻そうとする、不届きな鼠共が」
バルバトスの声は、幾重にも重なった機械の駆動音のように冷たく、感情の起伏が一切排除されていた。彼が動くたび、装甲の隙間から凍り付くような鋼鉄の冷たさを纏った冷気が漏れ出し、広間の温度を急速に奪っていく。
「バルバトス……!君が、サクヤさんを……森の神様たちを苦しめている張本人なんだね!」
アラタが『桜雷』を構え、震える声を張り上げた。
「苦しめている、だと?笑わせるな、少年」
バルバトスは、無機質なセンサーアイを赤く明滅させた。
「我ら帝国がしているのは『管理』だ。かつて、神とは気まぐれな災害そのものだった。ある時は干ばつを呼び、ある時は洪水で村を飲み込む。人はその理不尽な『揺らぎ』に怯え、跪くしかなかった。……だが、帝国は神を捕らえ、その力を数値化し、安定した機構の中に閉じ込めた。……見よ、この塔を」
バルバトスが巨大な腕を広げる。
「この塔が吸い上げる力によって、帝都の何百万という民は飢えから救われ、夜の闇に怯えることもなくなった。……少数の神の犠牲によって、大多数の人間が幸福を享受する。これこそが、完成された『秩序』であり、唯一無二の正義だ」
「……そんなのは、正義じゃない!」
アラタが激昂して一歩踏み出す。
「君たちは、神様の声を聴こうともしていない。彼らにも心があって、痛みがあって……大切な誰かと奏でたい旋律があるんだ!それを一方的に奪って、歯車の一部にするなんて……それは、ただの虐殺だ!」
「感情か。……そのような不確かなものに価値はない」
バルバトスは冷酷に断じた。
「神の心など、文明の進歩という巨大な歯車を回すための潤滑油に過ぎぬ。お前が直そうとしている『音』は、停滞を呼ぶ病だ。……少年、貴様という存在こそが、この世界の完成を妨げる最大のノイズなのだよ」
バルバトスが右腕を持ち上げる。その腕は巨大な連装砲へと変形し、内部で霊力が臨界点に達するキィィィィンという高周波を上げ始めた。
「貴様の波長を、ここで完全に抹消してやろう。……『静止する世界(スタティック・ワールド)』、起動」
瞬間、アラタの耳から全ての音が消えた。葉擦れの音も、ミラの呼吸も、自分自身の心臓の鼓動さえも。バルバトスを中心に広がる不可視のフィールド。それはあらゆる振動波――すなわち「音」と「熱」を強制的に停止させる、絶対静寂の領域だった。
「……な、に……これ……」
ミラが絶望に目を見開いたまま、彫像のように固まった。ナギの放った水流も、空中で氷の礫(つぶて)となって落下し、砕け散る。アラタの体も、凍り付くような鋼鉄の冷たさに芯まで侵食され、一歩も動くことができない。
「……音のない世界に、苦痛はない。ただの無だ」
バルバトスが、死刑宣告のように連装砲の照準をアラタの胸元に合わせる。
「消えろ、調律師。貴様の旋律を、永遠の静寂に沈めてやろう」
アラタの視界が、白く染まっていく。指先から感覚が消え、『桜雷』の重みさえ感じられない。だが、その完全な無音の深淵で。アラタは、かつてないほど鮮明に「それ」を聴いた。
それは、外側から届く物理的な音ではない。『桜雷』の中に宿るフレアの情熱。ミラが約束した信頼。ナギが託した誇り。ワラシが振り撒いた幸運。そして……今もこの塔の奥底で、泥水を啜りながら耐えているサクヤの、消え入りそうな祈り。
(……聴こえる。……みんなの、本当の音が)
バルバトスが作った死の静寂を、内側から突き破る力強い拍動。アラタは、自らの魂の波長を、その全ての声の集大成へと合わせるべく、意識を研ぎ澄ませた。
「……バルバトス。君の秩序は、確かに完璧かもしれない」
アラタの唇が、音のない世界で微かに動いた。
「でも……完璧なだけの世界は、誰も笑えないんだ。……君が止めたこの時間を、僕たちの『不協和音』で動かしてやる!」
アラタが、動かないはずの腕を、渾身の意志で振り上げた。『桜雷』に刻まれた桃色の紋様が、かつてないほど激しく、木漏れ日の粒子のような輝きを放ち始める。
「……馬鹿な。私の静止領域を、自らの『意志』で震わせたというのか……!?」
バルバトスのセンサーが、驚愕の赤に染まる。
「これが、僕の……僕たちの調律だ!……響けぇぇぇッ!!」
アラタが『桜雷』を、静止した空間そのものに向かって叩きつけた。
――カァァァァァァァァァァァンッ!!!!!
その一撃は、世界の静寂を木っ端微塵に粉砕した。溢れ出したのは、清らかな鈴の音と、花の甘い香り。止まっていたミラの時間が動き出し、凍っていたナギの水が激流となって蘇る。
「……ふぅ、ふぅ……っ。……バルバトス、君の正義には、血が通っていない。……僕たちは、たとえ不確定で理不尽な世界でも……みんなで笑って、みんなで泣ける……そんな『響き合う世界』を、取り戻すんだ!」
アラタの背後で、ミラとナギが力強く立ち上がる。三人の心臓の鼓動が、一つの巨大なリズムとなって重なり合い、塔全体を震わせた。
バルバトスは、粉砕された静止領域の残骸の中で、不気味にセンサーを光らせた。 「……理解不能だ。だが……それでこそ、壊し甲斐があるというもの」
将軍の背中の排気口から、過去最大級の蒸気の噴射音(プシューッ!)が放たれる。 対話は終わった。あとは、どちらの信念がこの世界の「基音」となるかを決める、血と鉄のアンサンブルのみ。
最終決戦の幕が、今、真に上がった。
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