4章

第18話:虚無を穿つ桜の雷鳴


 それは、決戦の火蓋が切って落とされる直前。夜明け前の最も深い闇が、世界を覆い尽くしていた刻(とき)のことだった。


 出撃準備の喧騒から少し離れた、神域の外縁部。アラタは一人、完成したばかりの『桜雷』の柄を握りしめ、その感触を確かめていた。ドワーフの剛鉄の冷たさと、神木の枝の温かさが同居する奇妙な感覚。それは、これから始まる戦いが、鉄と命のぶつかり合いであることを無言で告げていた。


「……アラタ」


 背後から、忍び足で近づいてきた気配が声をかけた。振り返らなくても分かる。その足音には、猫族特有のしなやかさと、彼女が今抱えている迷いが混じっていたからだ。


「ミラ。……どうしたの、出発までまだ少し時間があるよ」


 ミラは、アラタの隣に立つと、彼と同じように闇に聳える『虚無の穿孔塔』を見上げた。彼女の鋭い猫耳が、塔から発せられる金属が擦れる不快な音を捉えて、不快そうにピクリと動く。彼女は、ためらいがちに口を開いた。


「……ねえ。もしも、の話よ」


ミラは自分の腕を抱きしめた。そこには、かつて帝国の実験で鎖に繋がれた古傷が、薄く残っている。


「あの塔の中は、帝国の『音』で満たされているんでしょ。……もし私が、またあの時みたいに、自分の音を見失って……あんたに牙を剥くようなことになったら……」


 彼女の声が震えていた。双子の暗殺者に操られた時の恐怖が、トラウマとなって彼女の心を縛り付けているのだ。アラタは、槌を置くと、ミラの正面に向き直った。そして、彼女の冷え切った両手を、そっと自分の手で包み込んだ。


「……大丈夫。そんなことにはさせない」

「でも……!」

「ミラ。君の音は、そんな簡単に壊れたりしないよ。だって、君の心臓はこんなに強く脈打ってる」


 アラタの手を通じて、ミラの速鐘を打つ心臓の鼓動が伝わってくる。

「……僕は調律師だ。君がどんな深い闇に迷い込んでも、どんな雑音にかき消されそうになっても、必ず君の『本当の音』を見つけ出す。……そして、何度だって、君をこちらの世界に引き戻すよ」


 アラタの言葉に、ミラの瞳が揺れた。月明かりが、彼女の瞳に溜まった涙を照らし出す。彼女は、包まれた手を抜き取ると、今度は自分からアラタの頬に触れた。繋いだ手の温もりとは違う、少し熱っぽい、柔らかな感触。


「……約束よ、アラタ。……あんたが私を見つけてくれるなら、私は……何があっても、あんたの『盾』になる。あんたが音を奏でるための時間を、私がこの爪で切り拓く」


「ああ。……約束だ。僕の背中は、君に預ける」


 二人は、短く、しかし深く額を合わせた。互いの体温と呼吸が混ざり合う。それは言葉以上の誓いとなって、二人の魂を不可分な「共鳴の糸」で結びつけた。遠くで、夜明けを告げる一番鳥が鳴いた。二人は同時に離れ、それぞれの武器を握り直した。もう、迷いはなかった。





 同時刻。『虚無の穿孔塔』最上層、統括制御室。そこは、外界の有機的な生命活動を一切拒絶した、冷徹なる秩序の空間だった。壁一面を埋め尽くす計器類が発する規則的な歯車の回転音と、冷却用パイプから漏れ出す蒸気の噴射音(プシューッ!)だけが、この部屋の住人だ。空気は乾燥し、微かに焦げたゴムの臭いが漂っている。


 その中央にある鋼鉄の玉座に、機鋼将軍バルバトスは接続されていた。彼の巨躯は、塔の中枢神経と直結しており、森から吸い上げられる膨大な霊的エネルギーの奔流を、自らの体を通して監視していた。


「……ほう」


 バルバトスの無機質なセンサーアイが、微かに明滅した。彼が捉えたのは、視覚的な情報ではない。塔の基部、汚染された大地と聖域の境界線付近で発生した、極めて特異な「振動波」だった。


 それは、帝国が管理する均一なエネルギーの波形とは決定的に異なる。不規則で、感情的で、しかし、鋼鉄をも砕きかねない強靭な芯を持った、生命の奔流。


「……来たか、イレギュラー。……小賢しい鼠が、死地に自ら飛び込んでくるとはな」


 バルバトスの口元(に見える排気口)が歪み、熱い蒸気を吐き出した。それは、機械が浮かべる嘲笑だった。彼には分かっていた。その波長の中心にいるのが、あの生意気な「調律師」の少年であることを。


「……だが、無駄だ。貴様の奏でる『共鳴』などという曖昧なものは、我が帝国の完璧な『静止』の前では無力。……ここが貴様らの墓標となる」


 バルバトスが思考を送ると、塔の全システムが戦闘モードへと移行した。重油の匂いが濃くなり、塔全体が巨大な生き物のように唸りを上げ始める。


「……歓迎しよう。……そして、絶望の中で、静寂の一部となるがいい」





 太陽が地平線から顔を出した瞬間、アラタたちは森の境界線を飛び出した。目の前にそびえ立つのは、天を突き刺す巨大な鉄の楔(くさび)、『虚無の穿孔塔』。近づくにつれ、花の甘い香りは完全に消え失せ、肺を焼くような煤煙に煙る空気が彼らを包み込む。


「……来るぞ!迎撃システムが作動した!」


ナギが叫ぶと同時に、塔の基部に設置された格納庫のゲートが、重々しい金属が擦れる音を立てて開いた。


――ガシャン!ガシャン!ガシャン!ガシャン!


 吐き出されたのは、数百体を超える帝国軍の自律型機械兵『ポーン・ドロイド』の群れだった。感情のないレンズ眼を赤く光らせ、鈍色の装甲をガチャガチャと鳴らしながら、アラタたちを排除すべく殺到してくる。それはまさに、鉄の津波だった。


「チッ、数だけは一丁前ね!……アラタ、約束通り、道は私が作る!」


ミラが獣の咆哮を上げ、翠色の疾風となって機械兵の群れに突っ込んだ。彼女の爪は、ドワーフの技術で強化された特別製だ。鋼鉄の装甲を紙のように引き裂き、次々と敵をスクラップに変えていく。


「我が水よ、鉄の汚れを洗い流せ!」


ナギが両手を掲げると、空気中の水分が凝縮され、巨大な水龍となって敵陣を蹂躙した。透き通る水の色の奔流が、機械兵の関節部に入り込み、ショートさせていく。


 だが、敵の数は多すぎる。倒しても倒しても、次から次へと新たな兵隊が湧き出してくる。


「ええい、キリがないのう!アラタ、ここらで一発、デカイのを頼むぞ!」


ワラシがアラタの肩で叫び、パチンと指を鳴らした。彼女の「幸運」が、敵の密集地帯にアラタが踏み込むための、わずかな隙間を作り出した。


「……ああ。今、見えた」


 アラタは、機械兵の群れの中心、そのさらに奥にある「地面」を見据えた。彼には視えていた。塔から伸びる無数の霊的ケーブルが、地下でどのように絡み合い、大地を汚染しているかが。その歪んだエネルギーの結節点。そこが、この防衛システムの「不協和音の核」だ。


 アラタは深く息を吸い込み、背負っていた『桜雷』を抜き放った。ずしりとした重み。だが、それは単なる鉄の塊ではない。フレアの情熱が宿る剛鉄のヘッド。サクヤの祈りが脈打つ神木の柄。アラタが魔力を込めると、槌の表面に刻まれた桃色の紋様が、心臓の鼓動のようにドクンと脈打った。


「……みんな、少しの間、耳を塞いでいてくれ。……とびきり大きな音が鳴る」


 アラタは槌を高く振りかぶった。狙うのは、敵ではない。足元の大地そのもの。彼が込めたのは、破壊の意志ではない。この汚された大地を、あるべき姿に戻すための、渾身の「調律」。


「――響け、春の雷(いかずち)!!!」


――ドォォォォォォォォォォォォンッ!!!!!


 槌が地面を叩いた瞬間、世界の色が反転した。爆心地から広がったのは、土煙ではない。目も眩むような、鮮烈な桃色の閃光だった。


それは物理的な衝撃波を超えた、霊的な共鳴の嵐。清らかな鈴の音を何万倍にも増幅したような、荘厳な音色が戦場を支配する。その音が触れた瞬間、機械兵たちの動きがピタリと止まった。彼らの動力源である汚染された霊力が、アラタの奏でる「純粋な生命の音」によって上書きされ、強制的に浄化されたのだ。


――パキィィィン!バララララ……ッ!


 数百体の機械兵が、一斉に自壊した。装甲が弾け飛び、内部の歯車が砕け散る。それは破壊というよりは、まるで硬い殻を破って何かが孵化するような光景だった。砕け散った鉄の破片は、空中で桃色の光の粒子となり、花の甘い香りを撒き散らしながら消えていく。


 一撃。たった一撃で、鉄の軍勢は跡形もなく消滅した。


 もうもうと立ち込める雨上がりの土の匂いの中、アラタはゆっくりと槌を下ろした。  彼の周囲だけ、汚染されていた地面から、小さな緑の芽が顔を出していた。


「……す、すげえ……。これが、あたしの『桜雷』の威力かよ……」


フレアが唖然とした声を漏らす。


「……フン。少しはやるようになったな、調律師」


ナギが口元を緩め、ミラは誇らしげに尻尾を立てた。


「さあ、行こう。……道は開いた」


 アラタが塔の入り口を見据える。その瞳には、もう迷いも恐れもなかった。あるのは、この塔の頂上に座る元凶を調律し、サクヤとの約束を果たすという、鋼の如き決意だけだった。


 一行は、開かれたゲートをくぐり、ついに『虚無の穿孔塔』の内部へと足を踏み入れる。人と神と機械の存亡をかけた最終決戦が、今、幕を開けた。



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