第17話:決戦前夜、託される旋律
『虚無の穿孔塔』が放つ金属が擦れる不快な音は、夜の闇を裂いて桜の森へと侵食していた。遠くそびえる塔の先端からは、吸い上げた霊力を変換する際に生じる焦げたゴムの臭いと、排熱の蒸気の噴射音(プシューッ!)が絶え間なく響いている。それは、この聖域の穏やかな死を告げるカウントダウンのようでもあった。
神木の根元、淡い桃色の光が揺れる境界線。アラタは、完成したばかりの『桜雷』を膝に置き、独り、明日の決戦の地を睨んでいた。煤煙に煙る空の向こう、星さえも見えない暗雲の下で、鉄の巨塔は嘲笑うように立ち尽くしている。
「……眠れないのかい、アラタ」
背後から、火照った空気を纏った声が届いた。フレアだ。彼女は愛槌『プロメテウス』の整備を終えたばかりなのか、その腕からはまだ焦げたゴムの臭いに似た鍛冶場の残り香が漂っていた。彼女はアラタの隣にどっかりと腰を下ろすと、完成したばかりの『桜雷』を、まるで自分の子供を見守るような慈愛に満ちた目で見つめた。
「あんたに言っておかなきゃならないことがある。……その槌は、あたしの最高傑作だ。ドワーフの誇りにかけて、あんな鉄クズの塔に負けるような柔な造りはしちゃいない。……けどよ、最後に音を完成させるのは、打ったあたしじゃねえ。……振るうあんたの覚悟だ」
フレアは、分厚いマメだらけの手をアラタの肩に置いた。
「……あんたが聴いている『神様の声』を、あたしは信じてる。だから……死ぬんじゃねえぞ。あたしの最高傑作を、あんな汚え重油まみれのゴミ溜めで終わらせるんじゃねえ。……頼んだよ、相棒」
フレアの言葉は、熱風のようにアラタの背中を押し、去っていった。続いて影の中から現れたのは、水の波紋のような静寂を纏ったナギだった。
「……アラタ。貴殿に、これを」
ナギが差し出したのは、彼自身の魔力を極限まで圧縮した、透き通る水の色をした小さな結晶だった。
「……角を失った私にできるのは、貴殿の旋律が乱れぬよう、その渇きを癒やすことだけだ。……帝国は、神の力を奪い、世界の音を沈黙させようとしている。だが……貴殿という不確定要素が、私の絶望を塗り替えた。……私は、もう一度見たいのだ。あの水の都に響いていた、穏やかな歌のような平穏を。……貴殿の音に、私の誇りを預ける」
ナギの瞳には、かつての冷酷な拒絶はなく、ただ一人の友に対する深い信頼が宿っていた。ナギが去り、一人になったアラタの元へ、今度は小さな足音が近づいてくる。
「アラタ……」
ミラだ。彼女は不安を隠すように自分の長い尻尾を抱きしめ、少し震える声で話しかけてきた。
「……明日、もし……。私がまた、あの銀の糸に操られて、あんたを傷つけそうになったら……」
「そんなことはさせないよ、ミラ。僕が全部、調律してみせるから」
アラタが真っ直ぐに見つめると、ミラの頬の赤らみが、月光の下で鮮やかに浮かび上がった。彼女は俯き、アラタの服の裾をぎゅっと掴んだ。
「……約束よ。あんたは、世界を直す『調律師』なんでしょ。……だったら、私の震えてるこの音も、ちゃんと聴いてて。……怖いの。またあの、凍り付くような鋼鉄の冷たさに心を支配されるのが。……でも、あんたが側にいてくれるなら……私は、どんな檻だって食い破ってみせる。……私の命、全部あんたに預けるから。……勝って、一緒にこの森の春を見よう?」
ミラの心臓の鼓動が、掴まれた裾を通じてアラタに伝わってくる。彼女の抱える恐怖。そして、それを上回るアラタへの信頼。その重みが、アラタの胸に熱く深く沈み込んでいった。
「――お主ら、湿っぽいのはそこまでじゃ!」
ガラクタ袋からひょっこりと顔を出したのは、ワラシだった。彼女はいつになく真剣な表情で、アラタの鼻先を指差した。
「わらわは幸運の神。お主が負けるような未来、わらわが絶対に許さぬぞ!わらわがお主に宿っておるのは、お主が世界で一番『善い音』を出すからじゃ。……わらわの住処(時計)を直してくれたあの日のように、お主はただ、目の前の悲鳴を止めてやれば良い。……後の不運は、全部わらわが食うてやるわい!」
ワラシがパチンと指を鳴らすと、周囲の葉擦れの音が、まるで祝福の拍手のように一斉に高鳴った。
そして最後。神木の奥底から、最も儚く、しかし最も強靭な意志を持った少女が姿を現した。サクヤ。彼女の姿は、浸食のせいで以前よりもさらに透き通り、今にも夜風に解けてしまいそうだった。
「……アラタさま。……これが、最後の祈りです」
サクヤは、アラタの手に自分の手を重ねた。繋いだ手の温もりは、消え入りそうなほど微かだった。しかし、彼女の掌から流れ込んできたのは、この森が何千年もかけて紡いできた、膨大な生命の記憶――神々の囁きの奔流だった。
「私の力は、もうほとんど残っていません。……でも、この森の魂は、まだ諦めてはいないのです。……塔の奥に閉じ込められた、私たちの仲間の悲鳴を止めてあげてください。……あなたの一打が、この世界の絶望を……希望の調べへと変える唯一の鍵。……信じています、私の、優しい調律師さま」
サクヤがアラタの額にそっと唇を寄せると、木漏れ日の粒子のような柔らかな光がアラタの全身を駆け抜けた。フレアの誇り。ナギの誓い。ミラの命。ワラシの幸運。サクヤの祈り。かつて廃棄都市の片隅で、独りガラクタを直していた少年の背中には、今や数え切れないほどの「想い」が羽となって宿っていた。それは重荷ではない。彼を空へと押し上げ、絶望の塔を打ち砕くための、世界で最も力強い推進力。
「……ああ。みんなの音、確かに受け取ったよ」
アラタは『桜雷』を力強く握りしめ、立ち上がった。足元では、雨上がりの土の匂いが立ち込め、夜明けが近いことを告げている。地平線からは、帝国の軍勢が放つ冷酷な進軍の足音が聞こえ始めていた。だが、アラタの瞳に迷いはない。彼の耳には、もう聞こえていた。塔を破壊し、神々を解放し、この世界に本物の春を告げる、勝利のファンファーレが。
「……行こう。僕たちの、合奏(アンサンブル)を始めよう」
夜明けの最初の一光が、アラタの横顔を照らし出す。最終決戦。調律師アラタと仲間たちの戦いは、今、最高潮の幕を上げる。
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