3章
第12話:桃色の境界線
錆びついた大地が終わりを告げる場所は、あまりにも唐突に、そして鮮烈に現れた。つい数時間前までアラタたちの足を汚していたのは、機鋼帝国の残骸が混じった赤茶けた砂と、重油の鼻を突く匂いだった。しかし、峡谷の最後の一角を曲がった瞬間、世界はその色彩を塗り替えた。
「……嘘でしょ。こんな場所が、まだこの世界に残っていたなんて」
ミラの感嘆の囁きが、静かな風に乗って消える。眼前に広がっていたのは、見渡す限りの桃色の海だった。かつてアラタが廃棄都市の絵本で見た「春」という季節が、そこには永遠の静寂と共に封じ込められていた。
一歩、境界線を越えて踏み出す。途端に、肌を刺していた荒野の熱風が、風の愛撫のような涼やかで湿り気を帯びた空気に変わった。肺の奥まで満たすのは、花の甘い香りだ。それは単なる植物の匂いではなく、生命そのものが謳歌しているような、濃厚で芳醇な芳香だった。
頭上を見上げれば、煤煙に煙る空はどこにもない。幾重にも重なり合った桜の枝葉が、空を淡い桃色に染め上げ、その隙間からは木漏れ日の粒子がダイヤモンドの粉のように降り注いでいる。光の粒はアラタの肩や修理槌の頭(ヘッド)に触れ、まるで祝福するようにキラキラと跳ねた。
「……聞こえる。いや、全身に響いてくる。これが、この森の『音』なんだ」
アラタは足を止め、目を閉じた。これまでの旅で聴いてきたのは、金属が擦れる不快な音や、規則的な歯車の回転音、そして神々の悲鳴だった。しかし、この『桜の森』が奏でているのは、それらとは無縁の、圧倒的に清らかなアンサンブルだった。
カサリ、と足元の枯れ葉が鳴る。葉擦れの音が、まるで森全体の呼吸のようにさざ波となって広がっていく。それは神々の囁きそのものであり、八百万の精霊たちが語り合う、穏やかな午後の対話のようだった。
「フン、不浄な帝国の機械に汚されていない、純粋な霊子の溜まり場か。……角を失った私でさえ、皮膚が粟立つほどの濃度だぞ」
ナギが不器用に腕を組みながらも、その瞳には隠しきれない驚嘆が宿っている。彼の周囲を漂う透き通る水の色の魔力が、森の空気に触れて喜びを歌うように輝きを増していた。
「アラタ、アラタ!あそこを見るのじゃ!あんなに大きな桜、わらわは初めて見たぞ!」
ガラクタ袋から身を乗り出したワラシが、小さな指で森の中央を指差した。森の最深部。そこには、天を衝くほどの巨大な神木が鎮座していた。周囲のどの木よりも深く、鮮やかな紅枝垂(べにしだれ)の花を湛えたその大樹は、まさにこの聖域の心臓だった。
三人が吸い寄せられるようにその神木へと近づくと、清らかな鈴の音がどこからともなく響いてきた。それはアラタが槌で奏でる調律の音に似ていたが、より透明で、より慈愛に満ちた響きだった。神木の根元。絡み合った根の間から、一人の少女が、陽光に溶け出すように姿を現した。
透き通るような白い肌。桜の花びらをそのまま編み込んだような桃色の長い髪。そして、エメラルドよりも深い緑を宿した瞳。彼女が歩くたびに、足元の地面から木漏れ日の粒子が立ち昇り、枯れていた下草が瞬時に花を咲かせていく。
「……ようこそ、異郷の調律師さま。そして、風の民の娘と、誇り高き水の龍の子よ」
少女の言葉は、葉擦れの音のように優しく、聴く者の心を解きほぐした。
「私はサクヤ。この森の記憶を繋ぎ、散りゆく花を見守る者です」
彼女がアラタの前に立ち、その小さな手を差し伸べた。繋いだ手の温もりは、驚くほど儚く、しかし確かな生命の鼓動を伝えてきた。
「……待っていました。あなたの槌が、この世界に『本当の音』を奏で始める時を。……でも、見てください。私たちの歌は、もう、枯れかけているのです」
サクヤが視線を上げた先。神木の枝の間から見えたのは、地平線の彼方に屹立する、不気味な鉄の巨塔だった。重油の匂いを撒き散らし、規則的な歯車の回転音を響かせながら、帝国の『虚無の穿孔塔』が、この美しい聖域の喉元に牙を立てようとしていた。サクヤの瞳には、悲痛な祈りの色が浮かぶ。
「……お願いです。この森が、鉄のゴミ捨て場に変わる前に。あなたの音で、私たちの明日を……『調律』してくださいませんか」
アラタは、握ったサクヤの手の震えを感じ取った。足元では、神々の囁きが少しずつ、不安なざわめきへと変わり始めている。桃色の境界線を越えた先に待っていたのは、安息ではなく、世界の存亡を賭けた、最も美しく残酷な戦いの始まりだった。
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