第13話:枯れゆく神木、狂乱の残響


 サクヤに導かれ、森の深部へと進むにつれ、世界から生命の「彩り」が、まるで古い絵画の絵具が剥がれ落ちるように失われていった。先ほどまでアラタたちの心を癒やしていた花の甘い香りは、いつの間にか、鼻を突く焦げたゴムの臭いと、肺の奥を刺すような重油の鼻を突く匂いに混じり始めている。


「……おかしいわ。さっきから、風の味がどんどん苦くなってる」


ミラが鼻をしかめ、警戒するように周囲を見渡した。彼女の鋭い猫耳は、葉擦れの音の中に混じる、自然界ではあり得ない不快な振動を捉えていた。それは、遠くで回り続ける規則的な歯車の回転音が、大地を通じて伝わってくる「震え」だった。


 ふと、アラタの視界に、一本の若い桜の木が映った。その木は、まだ満開の花を湛えているように見えた。しかし、風が吹いた瞬間、その花びらは桃色の輝きを失い、ボロボロと崩れるように「灰色」の粉となって散っていった。


「これは……花じゃない。煤(すす)だ」


アラタがその枝に触れると、指先から伝わってきたのは、瑞々しい樹液の拍動ではなく、凍り付くような鋼鉄の冷たさだった。


「……見てください。あそこが、私たちの世界の『傷口』です」


サクヤが、震える指で森の先を指差した。そこには、森を裂くように屹立する帝国の『虚無の穿孔塔(アヴァリス・スパイア)』が、傲然とそびえ立っていた。鈍色の装甲で固められたその巨塔は、呼吸をするたびに蒸気の噴射音(プシューッ!)を吐き出し、周囲の空気を歪めている。


 塔の根元からは、無数の霊的ケーブルが触手のように地中に伸び、神木の根を執拗に締め上げていた。


「……っ!?なんだ、この不協和音は……!」


アラタは思わず耳を塞いだ。彼の「調律師」としての感覚が、森の悲鳴をダイレクトに受信してしまったのだ。それは、これまで聴いてきたどの音よりも醜悪で、冒涜的な響きだった。帝国の穿孔塔は、ただ霊力を奪っているのではない。吸い上げる代わりに、霊力を抽出し終えた後の「死んだエネルギー」を、黒い霊的廃油として地脈に逆流させていたのだ。


本来なら神々の囁きを運ぶはずの大地が、今は金属が擦れる不快な音を立てて泣いている。そして、その「毒」に当てられた森の小神(こがみ)たちが、狂気に陥っていた。


「……ギ、ギギギッ……!オレノ……ハナヲ……カエセ……ッ!!」


藪の中から飛び出してきたのは、かつては愛らしい姿をしていたであろう、小人の姿をした森の精霊だった。だが今のその瞳には木漏れ日の粒子のような清らかさはなく、混濁した赤黒い光が宿っている。精霊の指先からは、浄化される前の毒を含んだ蔓(つる)が伸び、無差別に周囲の草木を締め上げていた。


「よして!私たちは敵じゃないわ!」


ミラが飛び出し、精霊の攻撃を紙一重でかわす。しかし、精霊は聞く耳を持たず、心臓の鼓動を激しく乱しながら、自らの肉体を壊すほどの勢いで暴れ回っていた。


「アラタ、あの子たち、自分を制御できていない!魂が……壊されてるわ!」


「……サクヤ、止める方法は……」


アラタが振り向くと、サクヤはその場に膝をついていた。彼女の美しい桃色の髪は、毛先からじわりと灰色に染まり始めている。頬の赤らみは完全に消え、蒼白な肌に、苦痛の汗が滲んでいた。


「……ごめんなさい……。私が……この森の『歌』を繋ぎ止めていられれば……。でも、あの塔から流れてくる『虚無』が……私の心を、黒く塗りつぶそうとするの……」


 サクヤの涙が、地面に落ちた。その瞬間、アラタの手の中にある古い修理槌が、激しく共鳴した。アラタは悟った。このままでは、サクヤも、そしてこの森に住む何万という神々も、すべてが帝国の歯車を潤す「燃料」として使い潰され、後には死んだ鉄の山しか残らないことを。


(……許せない。道具を直す僕からすれば、これは『修理』じゃない。ただの『破壊』だ)

アラタの中で、静かな、しかし決して消えることのない怒りの火が灯った。それは、孤独なガラクタ修理屋だった彼が、初めて「世界の敵」を定義した瞬間だった。


「……ナギ、ミラ。サクヤを守って。……僕は、この森の声をもう一度聴く。……毒に染まった旋律を、書き換えるための『鍵』を見つけなきゃいけないんだ」


 アラタは神木の根元に手をつき、意識を深淵へと沈めた。聴こえてくるのは、神々の囁きが悲鳴へと変わり、やがて無音の絶望へと沈んでいくプロセスの連続。だが、その不協和音の奥底に、まだ微かに、しかし確かに響いている一音があった。それは、この森が何千年もかけて紡いできた、穏やかな歌の残響。


「……まだ、間に合う。……でも、今のこの槌じゃ、あの塔の厚い装甲までは届かない」


 アラタの視線は、森の子神を捉えつつ、背後に聳える巨塔を見据えていた。神様を助けるための、最強の「音」を作る。その決意が、アラタの心臓の鼓動を力強く押し上げた。


 背後で、狂った精霊たちの叫び声が響く。帝国の塔は、規則的な歯車の回転を早め、さらに深く、聖域の喉元に牙を突き立てていく。タイムリミットは、刻一刻と迫っていた。サクヤの命の灯火が、風前の灯火のように揺れていた。


「待ってて、サクヤ。……君の歌、僕が必ず、本物の春の中に取り戻してみせるから」


 アラタは、汗ばんだサクヤの掌を、繋いだ手の温もりを確かめるように強く握り締めた。それは、調律師としての、そして一人の少年としての、魂を賭けた誓いだった。



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