第10話:蜘蛛の檻、黄金の奇跡


 アラタは、岩を両断した「銀の糸」の残骸にそっと触れた。指先に伝わってきたのは、凍り付くような鋼鉄の冷たさと、それとは相反する、烈火のような「怒り」の振動だった。


 (……ただの武器じゃない。この糸自体が、生きている?)


 アラタが全神経を耳に集中させると、不規則な神々の囁きが、ノイズの混じった絶望の歌となって聴こえてきた。それは帝国によって半分機械化され、思考を奪われた「蜘蛛の神」の断末魔だった。


 (帝国は、神の魂を細く引き伸ばして、この糸にしているんだ。……だから、切ろうとしても無駄なんだ。切れば、神様の魂が傷つくだけで、糸はすぐに再生してしまう)


 アラタは修理槌を握り締める。対抗策は、破壊ではない。糸に宿る蜘蛛の神の「周波数」を、帝国の管理から引き剥がし、本来の波長へ戻すこと。いわば、巨大な弦楽器の調律を塗り替える作業だ。(一度に全部は無理だ。でも、一本……核となる糸さえ見つけて調律できれば、全体の支配を崩せるはずだ)


 アラタの脳裏に、複雑に絡み合う糸のネットワークが「音の地図」として描き出されていく。





 「……来るわよ!」

ミラの叫びと共に、森の沈黙が弾けた。空中に張り巡らされた数千本の銀糸が、規則的な歯車の回転音を伴って一斉に収束する。それは、逃げ場のない死の檻だった。


「アラタ、下がって!」

ミラが翠色の閃光となって前線へ飛び出す。彼女の爪が銀糸を薙ぎ払おうとした瞬間、糸が生き物のようにうねり、彼女の四肢に絡みついた。


「なっ……!?離しなさい!」

ミラが力を込めれば込めるほど、糸は肉に食い込み、金属が擦れる不快な音を立てて彼女の霊力を吸い上げていく。ミラの頬の赤らみは急速に失われ、瞳の光が濁り始めた。


「……ア、ラ……タ……っ!」


 銀糸に操られたミラの爪が、アラタの喉笛を掠める。薄氷を踏むような回避。アラタの頬からは絶え間なく血が流れ、滴り落ちる赤が地面の銀糸を汚していく。ミラの表情は絶望に歪んでいるが、その肉体は双子の指先が奏でる「狂気の旋律」に従い、正確無比な殺戮機械として駆動していた。


「くっ……ミラ、止まってくれ!」


 アラタの声は届かない。シオンとシトリンは木の上で、まるで連弾を楽しむピアニストのように優雅に指を躍らせている。


「無駄よ。彼女の神経は、もう私たちの『楽譜』の一部だもの」

「もっと激しく、もっと残酷に。ほら、最後の一節を踊りなさい」


 ミラの全身から翠色の光が激しく噴き出した。それは彼女の生命力を無理やり燃焼させる、自滅的なまでのフル・シンクロ。


「――そこまでだ、汚れし者共よ!」


 その時、アラタの前に蒼い奔流が割り込んだ。ナギだ。彼は残された魔力を振り絞り、自身の周囲に巨大な水の渦を発生させる。


「水の檻(スイロウ)……展開!」


 ナギが両手を突き出すと、ミラの周囲に球体状の分厚い水の壁が形成された。水の檻は、外側からの糸の振動を減衰させ、内側で暴れるミラの動きを水の粘性で封じ込める。


「ガハッ……! アラタ、長くは持たぬぞ! この糸……水の檻さえも内側から吸い取ろうとしている!」


 ナギの額にある「水の角」が、激しい負荷で点滅する。檻の中で、ミラは溺れる者のように苦悶の表情を浮かべ、糸に引かれるまま水の壁を爪で引き裂こうとしていた。


「ナギ、ありがとう……! あとは僕がやる!」


 アラタは修理槌を地面に置き、あえて素手で空中に舞う銀糸を見据えた。


「……正気? 素手で私たちの糸に触れるなんて。指が一本残らず消し飛ぶわよ」

シオンが冷笑を浮かべる。


 だが、アラタの目にはもう、糸は武器としては見えていなかった。それは、酷い不協和音を奏でながら泣いている、巨大な楽器の一部だった。


「……ワラシ、力を貸して。一番細くて、一番痛がっている糸を教えてくれ」


 アラタの肩に乗ったワラシが、震えながらも一点を指差した。

「……あそこじゃ! あの、月の光を一番吸っておる、禍々しい紫の糸……あやつが全ての『不協和音』の源じゃ!」


 アラタは迷わず、その糸を素手で掴みに行った。


――ギギギギギギッ!!


 触れた瞬間、アラタの掌に激痛が走った。鋼鉄の繊維が皮膚を裂き、肉を削る。だが、アラタは手を離さない。自らの血を媒介にして、彼の魂を「蜘蛛の神」の波長に直接流し込んだ。


「……ああ、やっぱりだ。君も……誰かを縛りたくなんてなかったんだね」


 アラタの脳内に、蜘蛛の神の記憶が流れ込む。森を愛し、命の糸を紡いでいた神。それを帝国が捕らえ、半分を冷たい機械に置き換え、無理やり「支配」の道具に変えた。今の不協和音は、神自身の悲鳴そのものだったのだ。


「聞こえるか……。これが、君の本当の音だ!」


 アラタは血に濡れた指先で、銀糸を「ピン」と弾いた。それは攻撃ではない。乱れた波長を、本来の調和へと戻すための「調律(チューニング)」。


――カァァァァァァァァァン…………。


 静寂の森に、かつてないほど清らかなハープのような調べが響き渡った。その一音が、数千の銀糸に伝播していく。不快な金属音は瞬時に消え、糸は淡い月の光のような輝きを取り戻した。


「なっ……私たちの支配が、書き換えられた……!?」

「ありえない……! 蜘蛛の神が、あんな少年に懐くなんて……っ!」


 シオンとシトリンが激しく動揺し、木から転げ落ちる。ナギの水の檻が弾け、中から解放されたミラが、アラタの胸の中へと崩れ落ちた。


「……ア、ラタ……? 私……」

「おかえり、ミラ。もう大丈夫だ」


 ミラを抱きとめるアラタの腕からは、絶え間なく血が流れていた。だが、その手には、もはや鋭い銀糸ではなく、柔らかく発光する一本の「守護の糸」が絡みついていた。




 木の上から着地した双子は、今までにない屈辱に顔を歪ませていた。

「……私たちの糸が、汚された」

「……許さない。……お母様の秩序を壊す、その汚い音を……消してあげる」


「「――お前たちだけは、この森の肥やしにしてやる!」」


 地面に降り立った双子の瞳が、同時に赤く発光する。二人の体が銀糸に包まれ、一つに重なり始めた。


 本当の戦いは、ここから始まろうとしていた。



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