第9話:幸運の目覚めと、忍び寄る銀の旋律
時は遡って、アラタが地下神殿へ向かう直前、燃え盛る廃棄都市を駆け抜けていた時のことだった。アラタは修理した「古い目覚まし時計」をガラクタ袋の奥深くに押し込んだ。
『……ありがとう、優しい調律師さん。君の音、とっても好きだよ』
その時、時計に宿っていた小さな付喪神の意識が、周囲の悲鳴を上げるガラクタたちの想いと共鳴した。帝国の搾取によって住処を失った「家神(座敷わらし)」のワラシ。彼女は、都市の崩壊と共に消えゆく運命だった。だが、アラタが放った清らかな鈴の音のような波長が、彼女に「依り代」としての力を与えたのだ。
(……この音の側にいれば、わらわは消えずに済む。いや、この男を見守らねばならぬ!)
ワラシは、目覚まし時計の歯車の隙間に、自身の霊体を滑り込ませた。アラタが地下神殿でナギを救い、ガルフと死闘を繰り広げている間、袋の中の時計は微かに穏やかな歌を奏で続けていた。それはアラタに無意識の「幸運」を与え、死線を潜り抜けさせるための、小さな神の助力だった。
今、荒野を進むアラタの背中で、ワラシは大きなあくびをしながら、袋の中から外の様子を伺っている。いつ正体を現すか。……それは、この心優しい少年が、本当の窮地に陥った時だと彼女は決めていた。
月光が届かない巨木の梢。そこには、周囲の葉擦れの音さえも吸い込むような、異様な沈黙が溜まっていた。シオンとシトリンは、まるで重力から解放されたかのように細い枝に立ち、地上で焚き火を囲むアラタたちを見下ろしている。
「ねえ、シトリン。あの子の槌、とってもいい音がするわ」
シオンが指先に絡めた銀糸を弾くと、金属が擦れる不快な音が微かに闇に溶けた。
「ええ、シオン。でも、あの子の奏でる清らかな鈴の音は、お母様の秩序を乱す不協和音。早く、私たちの楽器に変えてあげなきゃ」
二人の瞳には、感情の代わりに規則的な歯車の回転のような冷徹な計算が宿っている。彼女たちにとって、神を宿した獲物を狩ることは、崇高な儀式であり、最高に楽しい「遊び」だった。
「まずは、あの足の速い猫さんから。彼女の心臓の鼓動を、私たちの指先に繋ぎましょう」
「賛成。……開演の時間よ」
二人が同時に指を動かす。無数の銀糸が、焦げたゴムの臭いを伴って、音もなく森の深淵へと伸びていった。
錆びついた大地に、力強い朝日が差し込む。廃棄都市の煤煙に汚されていない朝の光は、木漏れ日の粒子のように美しく、荒野の岩肌を黄金色に染めていた。
「……ん、もう朝?」
アラタが目を擦りながら起き上がると、隣で丸くなっていたミラが、猫耳をぴくぴくと動かして大きく伸びをした。
「ふあぁ……。ねえアラタ、なんだか体が軽いの。昨日の疲れが嘘みたい」
その言葉通り、ミラの頬の赤らみは健康的な色を取り戻していた。一方で、ナギは少し離れた場所で、朝露を集めて透き通る水の色の球体を作り、顔を洗っていた。
「……フン。昨夜の野営地に、たまたま上質な精霊の溜まり場があったらしい。おかげで魔力の回復が早い」
昼過ぎ、一行は荒野の街道で立ち往生しているドワーフの行商人、ブラムと出会う。 アラタが彼の愛車『アイアン・ベア号』の金属が擦れる不快な音を一打ちで直し、規則的な歯車の回転を取り戻してやると、ブラムは感激して、懐から一枚の汚れた地図を取り出した。
「……兄ちゃん、あんたの腕を見込んで教えてやる。この先にある『桜の森』……あそこには近づかないほうがいい」
ブラムは声を潜め、重油の鼻を突く匂いを漂わせながら囁いた。
「帝国はあそこに『虚無の穿孔塔(アヴァリス・スパイア)』を建てた。ただの塔じゃねえ。地脈に直接『霊的毒』を流し込み、サクヤの力を腐らせてから一気に吸い上げる悪魔の機械だ。……それだけじゃない。その塔を守るために、帝国の本隊……あの特務神狩り隊(アイアン・チェイン)が動き出したって噂だ」
「特務神狩り隊……?」
アラタの問いに、ブラムは震える手でタバコに火をつけた。
「ああ。神を資源ではなく、ただの『獲物』として楽しむ狂人共さ。特に双子の暗殺者が放たれたら最後、逃げられる者はいないと言われてる。……兄ちゃん、あんたのその『音』、帝国に目をつけられてるぜ」
ブラムはそれだけ言い残すと、蒸気の噴射音(プシューッ!)を響かせて去っていった。
ブラムと別れてから数時間。太陽が傾き、荒野に長い影が伸び始めた頃。突如として、ミラの足が止まった。
「……っ、何? 嫌な予感がする」
彼女の猫耳が激しく痙攣している。アラタも周囲の空気に違和感を覚えた。先ほどまで聞こえていた風の音が、不自然に「遮断」されている。神々の囁きのような自然の音が、霧の中に消えていくような感覚。
「……音が、聞こえない。ナギ、ミラ、伏せて!」
アラタが叫んだ瞬間、ミラの目の前を「何か」が通り過ぎた。
ピィィィン……。月光を先取りしたような鋭い銀の光が一閃し、傍らにあった硬い岩が、音もなく真っ二つに両断された。
「な……!? 何よ、今のは!」
ミラの頬に、薄い切り傷が走る。アラタは目を凝らした。空中に、蜘蛛の巣よりも細く、しかし鈍色の装甲さえも切り裂く強度を持った「銀の糸」が、複雑な網の目のように張り巡らされていた。
「……見えない糸。……あいつらだ。ブラムの言っていた暗殺者が、もう来ている!」
ナギが水の壁を展開しようとしたが、その水流さえもが糸に触れた瞬間、金属が擦れる音を立てて霧散させられた。
無音の森。見えない檻。姿の見えない双子の暗殺者が弾く「死の旋律」が、アラタたちの周囲で静かに、確実に鳴り響き始めていた。
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