第8話:廃村の調律、錆びた残り香
錆びついた風が、乾いた音を立てて倒壊した民家の屋根を撫でていく。『錆びの荒野』の北端、かつては緑豊かな農村だったという『灰の村』に辿り着いた時、一行を待ち受けていたのは、墓標のように立ち並ぶ煙突の残骸と、地を這うような沈黙だった。
「……ひどい。これじゃ、生き物の気配なんて一つもないじゃない」
ミラが鼻をしかめ、足元の土を蹴った。そこからは、かつて大地を潤していたはずの雨上がりの土の匂いではなく、土壌そのものを殺し尽くした帝国の重油の鼻を突く匂いが、死臭のように立ち昇っていた。
「帝国が通り過ぎた後は、常にこうだ。生命(いのち)を資源として刈り取り、残るのは文明の排泄物のみ。……虚しいものだな」
ナギが吐き捨てるように言い、折られた角の痕にそっと指を触れる。彼の透き通る水の色の瞳には、かつて自分の都を襲った光景が重なっているのだろう。
アラタは無言で、村の中心だったと思われる広場へ歩を進めた。そこには、帝国の徴発部隊が「価値なし」と判断して捨て置いた家財道具が、無造作に積み上げられ、巨大なゴミの山を形成していた。鈍色の装甲の破片、錆びて動かなくなった農具、そして――子供が抱いていたであろう、頭の取れたぬいぐるみ。
アラタが山に近づくと、耳の奥でチリチリとした痛みが走った。それは物理的な音ではない。数千、数万という細かな「不協和音」の集積。捨てられ、忘れられ、それでもなお「生きていたい」と願う道具たちの断末魔だった。
(……うるさい。いや、みんな、泣いているんだ)
アラタは一軒の、壁が半分崩れ落ちた民家の中に吸い寄せられた。埃にまみれた食卓の上、一台の古い「コーヒーミル」が置かれていた。それは帝国製の規則的な歯車の回転を持つ最新式ではなく、職人が手作業で木と鉄を組み合わせて作った、古色蒼然とした一品だった。
アラタはそっと、その木製のハンドルに触れた。瞬間、凍り付くような鋼鉄の冷たさが指先から流れ込み、アラタの視界が歪んだ。
『……お父さん、いい匂いがするね』 『ああ、今日は特別だ。この豆が挽き終わったら、みんなで歌を歌おう』
かつての家族の笑い声、花の甘い香りのような温かな日常。だが、その記憶を切り裂くように、金属が擦れる不快な音と、冷酷な進軍の足音が乱入してくる。黒い軍靴が床を踏み荒らし、家族の幸せを、この小さなミルごと床に叩きつけた。
(……苦しい。……回らない。……もう、誰の手の温もりも感じられない……!)
ミルの内部で、歪んだ歯車がカチカチと空回りし、悲鳴を上げている。それはまさに、村全体の絶望を凝縮したような「不協和音」だった。
「……もう大丈夫だ。僕が、君たちの声を繋ぎ直す」
アラタは修理槌を抜き放った。ミラとナギ、そして袋の中から覗き見るワラシが、息を呑んでアラタを見守る。
アラタは目を閉じ、ミルの内部に宿る付喪神(つくもがみ)の魂と対話した。歪んだのは、鉄の部品ではない。突然奪われた幸せへの「無念」が、波長を狂わせ、神を魔に変えようとしているのだ。
「聞こえるよ。君が一番愛していたのは、挽いた豆の香りじゃない。それを囲む、みんなの笑顔だったんだね」
アラタの槌が、ミルの木製の胴体を、羽毛が舞い降りるような軽やかさで叩いた。
――カァァァァァァァァァァァン…………。
静寂の廃村に、清らかな鈴の音が染み渡っていく。それは破壊を拒み、再生を肯定する慈愛の旋律。槌から放たれた木漏れ日の粒子がミルの内部へ浸透し、錆びた歯車の一枚一枚を、まるで朝露が洗い流すように浄化していく。
チク、タク、チリ……。軽やかな、しかし芯の通った回転音が戻ってきた。それは規則的な歯車の回転という傲慢な支配ではなく、使う者の手に寄り添うような、柔らかく穏やかな歌だった。
その瞬間だった。ミルから溢れ出した光の波が、広場の「ゴミの山」へと伝播していった。捨てられた農具、破れたカーテン、錆びた鍋。それら一つ一つが、アラタの奏でた旋律に応えるように、小さな光を灯し始めた。
「……何、これ。村全体が……光ってる?」
ミラが目を見開く。神々の囁きのような微かな振動が、地面を通じて伝わってくる。それは感謝の合唱であり、失われた人々への鎮魂歌でもあった。
「……アラタ。貴殿は、ただのガラクタを直したのではないな。この土地の『誇り』を、帝国に汚される前の記憶を、呼び戻したのだ」
ナギが静かに頭を垂れる。
しばらくして、光は収まった。村が元通りになったわけではない。建物は壊れたままであり、人は戻らない。しかし、漂っていた重油の匂いは霧散し、そこにはどこか、雨上がりの土の匂いに近い、清々しい静寂が満ちていた。
「行こう。……みんなの想いは、僕がこの槌に預かった」
アラタは、直したミルをそっと食卓の真ん中に置き直した。もう、この道具が悲鳴を上げることはない。いつか新しい住人が現れるその日まで、このミルは静かに、この家が愛されていた証人として、時を刻み続けるだろう。
アラタの背中で、ワラシが少しだけ鼻を啜る音が聞こえた。一行は、再び北へと歩き出す。その足取りは、先ほどよりも力強い。アラタが手にした修理槌は、今や数え切れないほどの「声」を宿し、心臓の鼓動のような確かな熱を帯びていた。
帝国がどれほど世界を汚そうとも、繋ぎ直せる「音」がある限り、希望は潰えない。荒野の向こうに、淡く光る『桜の森』が、彼らを招くように揺れていた。
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