2章

第7話:荒野の焚き火、溶けゆく境界線


 機鋼帝国の心臓部、帝都ゼノフィアの最高司令室。巨大なモニターには、崩壊した廃棄都市の惨状が映し出されていた。ガルフ隊長の反応が途絶えてから一時間。将軍イザベラは、冷え切った紅茶のカップを指先で弄びながら、静かにその映像を眺めている。


「……ガルフが敗れたか。所詮は野生の力を制御しきれなかった、旧世代の失敗作ね」


彼女の背後で、規則的な歯車の回転音すら立てず、二つの影が音もなく降り立った。シオンとシトリン。白と黒のゴシック風の軍服を纏った双子の少女は、感情の欠落した瞳でイザベラを見上げる。


「「呼びましたか、お母様」」


 二人の声は、完璧に重なり合っていた。イザベラがモニターの一点を指差す。そこには、壊れた槌を握りしめた少年、アラタの姿があった。


「――この『調律師』を。生かしたまま連れてきなさい。私のコレクションには、まだ『世界を直す音』が足りないの」


「「……承知いたしました」」


 二人が指先を動かすと、空中で金属が擦れる不快な音を立てて、銀色の細い糸が奔った。重油の鼻を突く匂いを微かに残し、双子の影は夜の闇に溶けるように消えた。イザベラの唇が、残酷な弧を描く。彼女の目的は、神々の声を自らの手中に収め、世界を完全に「管理」することだった。





 廃棄都市の残骸が地平線の彼方に沈み、世界は深い紺色の闇に包まれた。『錆びの荒野』。一日の激闘を終えたアラタたちは、大きな岩陰に小さな焚き火を起こしていた。  パチパチと薪がはぜる音が響く。アラタは、戦いで煤けた修理槌を布で丁寧に拭っていた。


「……驚いたわ。本当に、あのガルフを倒しちゃうなんて」

ミラの声に、アラタは顔を上げた。焚き火に照らされたミラの頬は、もう恐怖に震えてはいない。


「僕だけの力じゃないよ。ミラとナギが、僕を信じてくれたからだ」

「信じたわけではない。……ただ、貴様の奏でる音が、私の内にある『渇き』を一時的に癒やした。それだけだ」

ナギは少し離れた場所で、腕を組んで目を閉じていた。言葉は棘があるが、態度は最初に出会った時とは明らかに違っていた。


アラタは二人の様子を伺いながら、背負っていた大きな「ガラクタ袋」を下ろした。中には、修理に使う部品や、これまでに調律してきた古い道具たちが詰まっている。彼は、戦いで酷使した修理槌の汚れを拭おうと、袋の中に手を突っ込んだ。


「……ん?」


 指先に触れたのは、冷たい金属の感触ではなかった。それは、柔らかくて、ほんのりと温かい、何か。


「ひゃっ! くすぐったいぞ、お主!」


「うわぁぁっ!?」


 突然、ガラクタ袋が生き物のように激しく暴れ出した。驚いたアラタが袋を放り出すと、中からボロ布のような赤い着物を纏った「小さな影」が飛び出してきた。


「なっ、なんだ!? 帝国の追手か!」

ナギが瞬時に立ち上がり、手に水の刃を形成する。ミラも鋭い爪を立て、低い姿勢で身構えた。


 だが、焚き火の光に照らされたのは、刺客とは程遠い存在だった。


 それは、おかっぱ頭に大きな瞳、ふっくらとした頬をした、幼い少女の姿。彼女はガラクタ袋から転がり出ると、不満げに鼻を鳴らして着物の砂を払った。


「失礼な奴らじゃな。わらわを『追手』などと一緒にせんでほしいぞ」


「……子供? どうしてこんな場所に……」

ミラが呆然と呟き、構えを解いた。


 少女は「ふんっ」と胸を張ると、アラタの鼻先を指差した。


「わらわは『ワラシ』。見ての通りの家神(いえがみ)――座敷わらしじゃ。お主の袋の中が居心地良さそうじゃったから、少しばかり揺られておったのよ」


「座敷わらし……? でも、座敷わらしって家に住む神様だろ?こんな荒野についてきて大丈夫なのか?」

アラタが問いかけると、ワラシは少しだけ寂しそうな顔をして、周囲の枯れた大地を見渡した。


「……わらわの住んでおった古い家は、帝国の機械に踏み潰されてしもうた。住人も神も、みんな燃料にされて消えていく中……お主の『音』が聞こえたのじゃ」


 ワラシがアラタの膝にトコトコと歩み寄り、その手にそっと触れる。


「お主がガラクタを直す時、そこには春の陽光のような温かい『共鳴』が宿る。……その音の側にいれば、わらわも凍えずに済むと思うたんじゃよ。お主、わらわを置いていくか?」


 上目遣いで見つめてくるワラシの瞳には、家を失った小さな神としての孤独が滲んでいた。アラタは、自分の修理槌を見つめた。この槌は、壊れたものを直すためのものだ。そして、神様の心に寄り添うためのもの。


「……分かったよ。狭い袋の中でよければ、一緒に来るといい。よろしくな、ワラシ」


 アラタが微笑むと、ワラシの顔がぱぁっと明るくなった。


「うむ! 苦しゅうないぞ。お主らには、わらわが特別に『幸運』を分けてやろう。……例えば、ほら!」


 ワラシがパチンと指を鳴らす。すると、さっきまで燻っていた焚き火が、急に勢いよく燃え上がり、周囲を暖かなオレンジ色の光で包み込んだ。さらに、ミラの空腹を察したのか、どこからか美味しそうな木の実が、焚き火のすぐそばに転がってきた。


「……あら。これ、私の好物じゃない」

ミラが驚きながら、その実を拾い上げる。


「ふふん、わらわがいる限り、運命というやつは少しばかりお主らに味方するようになるのじゃ」


 ワラシの無邪気な笑い声が、荒野の冷たい空気を魔法のように和らげていく。人間と、獣人と、龍と、座敷わらし。共通点など何一つない四人の間に、初めて「家族」のような、不思議な絆の萌芽が生まれた瞬間だった。


 だが、ワラシはアラタの耳元で、小さく、誰にも聞こえない声で囁いた。


「……気をつけよ、アラタ。お主の音を嗅ぎ回る、冷たくて不快な『銀の音』が、すぐそこまで迫っておるぞ……」


 ワラシの警告が、夜風に混じって消える。暗闇の向こう側で、月光を反射する「見えない糸」が、静かに、確実に、彼らを包囲しようとしていた。




「……アラタ。あんた、どうして私たちを助けたの?」

ミラが真剣な瞳でアラタを見つめた。

「帝国に逆らえば、平穏な生活はもう戻ってこない。……後悔してない?」


 アラタは、修理槌を握りしめ、空を仰いだ。

「後悔なんてしてないよ。……僕は、ガラクタを直すのが好きだ。でも、もっと好きなのは、直った後の道具が上げる、あの幸せそうな音なんだ。……君たちからも、そんな音が聞こえてきた。だから、放っておけなかった」


「……お節介ね。でも、嫌いじゃないわよ。その『音』」

ミラはそっとアラタの肩に頭を預けた。ナギの手元には、いつの間にか小さな水の結晶が浮かび、清らかな鈴の音を微かに奏でていた。


 夜風が、神々の囁きを運んでくる。ワラシがアラタの膝の上でスースーと寝息を立て始め、三人と一柱の絆が、焚き火の熱で静かに、しかし強固に結ばれていった。



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