第4話:奈落の神殿、枯れたる龍王


 廃棄都市『スクラップ・バレー』の地下へと続く巨大な換気シャフト。そこから吹き上がる風は、地上の夕闇よりもなお暗く、粘りつくような重油の臭いと、喉を焼くような不自然な熱を孕んでいた。


「……本当に、来るつもりなのね」


 垂直に切り立ったシャフトの縁で、ミラがもう一度、背後のアラタを振り返った。  彼女の猫耳は、地下から響いてくる不快な機械の駆動音を拾って、神経質に小刻みに震えている。


「言っただろ。放っておけないんだ」


 アラタは短く答え、手にした修理槌の柄を強く握りしめた。掌(てのひら)から伝わってくるのは、槌が捉えた地下の「震動」だ。それは、絶望した者が最期に放つ、魂の断末魔。心臓を直接冷たい手で掴まれるようなその波動に、アラタの体は本能的な恐怖で震えていた。だが、それ以上に「調律師」としての使命感が、彼の足を一歩前へと踏み出させた。


 二人は暗いシャフト内に張り巡らされた錆びた配管を伝い、深淵へと降りていった。


 地下に広がるのは、機鋼帝国ゼノフィアが築き上げた、無機質で冷酷な実験施設だ。  壁面を這う無数の霊的ケーブルは、まるで剥き出しの神経のように脈動し、奪い取った神々のエネルギーを帝都へと運び去っていく。通路のあちこちからは、高圧の蒸気が「プシューッ!」と鋭い音を立てて噴き出し、規則的に回転する巨大な歯車の音が、重苦しい地鳴りとなってアラタの鼓膜を圧迫した。


「止まって」


 ミラの制止と同時に、前方の通路に赤く光る「走査線」が走った。帝国の自動警備システムだ。触れれば即座に警報が鳴り、機鋼兵の群れが押し寄せるだろう。


「……ミラ、少しだけ待って」


 アラタは一歩前に出ると、通路の壁に埋め込まれた古い制御盤にそっと手を触れた。  目を閉じ、意識を集中させる。彼の脳裏に、制御盤の中に閉じ込められ、終わりのない計算を強制されている「数理の精霊」の姿が浮かんだ。


(……ごめんね、苦しいよね。でも、もう少しだけ力を貸して。君の『計算』を、一瞬だけ僕に同期させてほしいんだ)


 アラタが修理槌で、制御盤の特定の箇所を「ト、トン」と軽やかなリズムで叩く。  それは破壊の衝撃ではない。機械の中に流れるエネルギーの周期を、アラタの心音と重ね合わせるための儀式だ。


「……よし。今だ」


 アラタが合図を送ると同時に、無機質に光っていた赤い走査線が、瞬きするように消えた。


「……驚いたわ。帝国のセキュリティを、ただの金槌(かなづち)一つで無効化するなんて」


「無効化したんじゃないよ。彼に、ちょっとだけ『休憩』してもらったんだ」


 アラタは額の汗を拭い、先を急いだ。進むにつれ、重油の臭いは薄れ、代わりに「死んだ水」の匂いが漂い始めた。それは本来、生命を育むはずの水が、機械の中で熱せられ、汚され、意志を失った時に放つ、腐敗した金属のような臭いだった。


 やがて、二人は施設の最深部――広大なドーム状の空間へと辿り着いた。


 そこは、かつて『水の神殿』と呼ばれた聖域だった。だが、今やその光景は無残の一言に尽きた。美しい白石の柱には、鋼鉄のボルトが何本も打ち込まれ、天井からは蜘蛛の巣のように張り巡らされたケーブルが、中央に鎮座する巨大な「機鋼の檻」へと繋がっている。


 檻の中にいたのは、一人の少年だった。


 年齢はアラタと同じくらいだろうか。透き通るような青白い髪は汚れ、その額からは、無残に根元からへし折られた「龍の角」の痕が生々しく残っている。彼の体からは、絶え間なく蒼い光の粒子がケーブルを通じて吸い上げられ、部屋全体を動かす不気味な電力へと変換されていた。


「……ナギ」


 ミラの声が、悲しみに震える。檻の中の少年――龍人族の王、ナギがゆっくりと顔を上げた。その瞳は、深海のように暗く、あらゆる希望を捨て去った者の冷たい光を宿していた。


「……また、新しい『部品』が来たのか。あるいは、慈悲深い死を運んできた処刑人か」


 ナギの声は、ひび割れた大地のように乾き、感情の起伏を一切感じさせなかった。 「無駄だ。今の私は、ただの『電池』。龍の角を失い、水を呼ぶ力も失った。……私は、もう自分を救うことすら諦めたのだ」


「諦めるのは、まだ早いよ」


 アラタが、一歩ずつナギへと歩み寄る。足元では、帝国の機械たちが発する不快な振動が続いているが、アラタの耳には別の音が届いていた。檻の奥底で、今にも消えそうに震えながら、それでも必死に脈打っている「水の源流」の音が。


「……聞こえるよ、ナギ。君の中に、まだ枯れずに残っている小さなせせらぎが」


「黙れ……! 人間に何がわかる! 鉄と油で世界を汚し、神々を部品として食い繋ぐ種族が、私の何を知っているというのだ!」


 ナギが激昂した瞬間、檻に接続されたケーブルが激しく発光した。負の感情に反応した防衛システムが、檻の周囲に強力な電磁障壁を展開する。火花が飛び散り、空気が焦げるような臭いが立ち込めた。


「アラタ、下がって! それに触れたら命がないわ!」


 ミラの叫びをよそに、アラタは修理槌を両手で固く握りしめた。彼は逃げなかった。いや、逃げられなかった。ナギの瞳の奥に見える、孤独と、誰かに見つけてほしかったという叫びが、アラタの魂を繋ぎ止めていた。


「怒ってもいい、拒絶してもいい! でも、君を壊れたままで終わらせたりしない!」


 アラタは自身の呼吸を、檻を巡るエネルギーの脈動に無理やり合致させた。ドクン、ドクン。心臓が破裂しそうなほどの負荷がかかる。視界が白く霞み、体中の血管が熱くなる。だが、彼は槌を振り上げた。


「……聞こえるか、これが君の、本当の音だ!」


 アラタの槌が、電磁障壁の「節(ふし)」――エネルギーが最も集中する一点へと、真っ向から振り下ろされた。


――カァァァァァンッ!


 地下神殿全体を揺るがすような、清冽な一撃。  その音は、無機質な機械の部屋に、一瞬だけ「本物の雨」が降ったかのような涼やかな余韻を残した。


 電磁障壁に、蜘蛛の巣のような亀裂が走り、次の瞬間、ガラスが砕けるような音を立てて霧散した。


「……檻が、壊れた……?」


 呆然とするナギの前に、汗だくになりながらも不敵に笑うアラタが立っていた。


 だが、その勝利の余韻を、不吉な足音が塗り潰していく。神殿の入り口から、冷徹な金属の足音が響いてきた。


「……ふむ。ただの修理師と聞いていたが、これほどの『調律』を見せるとは。少々、見積もりが甘かったようだな」


 現れたのは、冷酷な美貌を軍帽の影に隠した女性士官。機鋼帝国ゼノフィアの将軍、イザベラの配下――神狩り部隊の隊長だった。彼女の手には、神の力を強制的に捻じ曲げる、凶悪な機鋼軍刀が握られていた。


「さあ、お遊びはここまでだ。部品(ナギ)を返してもらおうか」


 物語の最初の試練が、アラタとミラ、そしてナギの前に立ち塞がった。




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