第3話:翠の逃亡者、鉄の雨


 直した時計を抱え、アラタは廃材の山を駆け上がっていた。背後からは、帝国軍の装甲車が放つ規則的な進軍の足音が迫っている。逃げ場のないゴミの迷宮。しかし、アラタの足を止めたのは追手ではなく、大気を震わせる「異様な響き」だった。


「……なんだ、この音は。悲鳴……じゃない。もっと、ずっと深いところから……」


 視界が開けた先、巨大なスクラップの窪地に、一人の少女が倒れていた。翠色の髪。頭部から覗く獣の耳。そして彼女の四肢には、鈍色の装甲から伸びた「抑制の鎖」が食い込み、規則的な歯車の回転音と共に、彼女の生命力を無理やり吸い上げている。


「ハァ……ハァ……っ。くる……な……っ」


 少女――ミラが顔を上げる。その頬の赤らみは、熱病のような高熱によるものだった。  アラタの耳には、彼女の肉体と機械が激しく衝突し、心臓の鼓動が不協和音を奏でているのが聴こえた。


「君……その体、すごく辛そうだ。鎖の中にいる神様が、無理やり動かされて泣いてる」


「あんた……何者よ。逃げなさい……追手が、すぐそこに……っ!」


 ミラの言葉を裏付けるように、頭上の崖から蒸気の噴射音(プシューッ!)を立てて、帝国の機械猟犬(ケルベロス)が飛び出してきた。その駆動音は、獲物を引き裂くための金属が擦れる不快な音に満ちている。


「……大丈夫。君も、その鎖の中の神様も、僕が『調律』してあげる」


 アラタは震える手で修理槌を握り直した。ミラを縛り付けている鎖の「不協和音の核」を見定める。それは単なる鉄の束ではない。ミラの霊力を逆流させ、絶えず凍り付くような鋼鉄の冷たさを彼女の魂に送り込んでいる呪いの楔だ。


「聞こえるぞ……。君たちの、本当の願いが」


 アラタは機械猟犬の牙が届く寸前、ミラの右足に食い込む鎖の接合部を、正確に叩いた。


――カキィィィィィィィンッ!!


 一撃。

周囲に立ち込めていた焦げたゴムの臭いが、アラタの槌から放たれた木漏れ日の粒子によって一瞬で浄化される。鎖は、まるで本来の役割を思い出したかのように、柔らかい光の輪となって弾け飛んだ。


「あ……っ、力が……流れ込んでくる……!?」


 ミラが目を見開く。彼女の瞳に、本来の力強い光が宿った。自由になった右足が地面を蹴る。それは風の愛撫のようにしなやかで、かつ暴風のような破壊力を秘めていた。


「よくも……よくもやってくれたわね、鉄屑ども!」


 ミラが跳躍し、機械猟犬の頭部を一撃で粉砕する。アラタとミラの視線が交差する。繋いだ手の温もりはまだないが、二人の間には、確かに「共鳴」という名の絆が生まれ始めていた。


「あんた、面白い音を出すのね。……名前は?」


「アラタ。……行くよ、ミラ。まだ、救わなきゃいけない『音』が残ってるんだ」


 二人は、さらなる悲鳴が響く地下神殿――ナギが待つ場所へと、鉄の雨を潜り抜けて走り出した。





過去回想:【被検体04、硝子(ガラス)越しの咆哮】


 冷たい。それがミラの記憶の底にある、最初の感覚だった。帝国の第参霊的研究所。白いタイルと強化ガラスで仕切られた独房が、彼女の全てだった。


「――投与開始。被検体04の『獣性』を強制励起させる」


 ガラスの向こう側で、白衣の研究員たちが感情のない声で告げる。首輪から伸びたチューブを通じて、凍り付くような鋼鉄の冷たさを持つ液体が血管に流し込まれる。それは、ミラの体内に眠る「草木の神の加護」を無理やり活性化させ、同時に「毒」へと変える呪いの薬だった。


「ア……ァァァァッ!」


 全身の筋肉が断裂するほどの激痛。爪が勝手に伸び、床のタイルを引っ掻いて金属が擦れる不快な音を立てる。彼女の誇り高い獣の本能は、薬物によって歪められ、「目の前の動くものを無差別に引き裂く」だけの破壊衝動へと変えられていく。


『素晴らしい数値だ。これなら自律型の生物兵器として実用化できる』 『しかし、精神面の抵抗が強い。まだ自我が残っている』 『構わん。脳の言語野を焼き切ってでも、従順な獣に仕立て上げろ』


 規則的な歯車の回転音のように淡々と交わされる会話。彼らはミラを「生き物」としては見ていなかった。ただの便利な「部品」だった。


 (……私は、獣じゃない。……私は、風の中で自由に駆ける、誇り高き種族……っ!)


 ミラは血の滲む唇を噛み締め、ガラスに映る自分の姿――薬で瞳孔が開き、涎を垂らして唸る醜い獣の姿――を睨みつけた。


いつか必ず、この硝子の檻を食い破り、お前たちの喉笛を食いちぎってやる。その昏い復讐の炎だけが、彼女の自我を辛うじて繋ぎ止めていた。





過去回想:【折られた誇り、泥を啜る龍】


 それは、清らかな鈴の音がどこまでも響き渡る、美しい朝のことだった。水の都『アクア・ルミナス』。ナギは都の守護神である「水龍」の祭壇で、民と共に神々の囁きのような穏やかな祝詞(のりと)を捧げていた。


 帝国の使節団が「共存の証」として持参したのは、見たこともないほど巨大なクリスタルの彫像だった。だが、それが木漏れ日の粒子を浴びて輝き始めた瞬間、都の安寧は地獄へと反転した。


「……これは、何だ!?」


 ナギが叫んだ時には、すでに遅かった。クリスタルの中から噴き出したのは、光ではなく焦げたゴムの臭いを放つ黒い煙。それは帝国が開発した「霊的ウイルス」を散布する時限爆弾だった。


『……龍人族の王子よ。この煙を止めたければ、貴公の「角」を差し出せ。あれこそが、この都の霊的防壁の鍵だ』


 帝国の外交官は、規則的な歯車の回転を刻む義手で、冷酷に条件を突きつけた。


ナギの背後では、汚染された水に苦しむ民たちの悲鳴と、守護神が上げる神々の囁きが苦痛に歪んだ咆哮へと変わっていく。


「……私の誇りで、皆が救えると言うのだな」


 ナギは自ら、その美しい蒼い角を祭壇の縁に叩きつけた。


――ギギィィッ、ガシャァァァァァァンッ!!


 脳を直接削られるような金属が擦れる不快な音。誇りが折れた瞬間、ナギの視界から透き通る水の色が消え、世界は煤煙に煙る空のようなモノクロームに染まった。


帝国は約束を果たすどころか、力を失ったナギを檻に放り込み、都の水をすべて「動力源」として持ち去ったのだ。


 (……人間など、二度と信じぬ。……この渇き、絶対に忘れはしない……)


 冷たい地下神殿の檻の中で、ナギは凍り付くような鋼鉄の冷たさを感じながら、自身の心の火を消さぬよう、ただ泥を啜り続けてきた。




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