第2話:世界の調律師
その街は、神に見捨てられたのではなく、神を忘れた人間たちが作り上げた、巨大な死体置き場だった。
辺境の廃棄都市『スクラップ・バレー』。
空を仰げば、そこにあるのは青い虚空ではなく、機鋼帝国ゼノフィアの巨大な煙突が吐き出す、煤煙(ばいえん)に煙る空だ。太陽の光は、重油を溶かしたような雲に遮られ、地上には常に鈍色の装甲の破片が鈍い光を反射している。
アラタは、その鉄の山の一角に組まれた、小さな小屋の中にいた。
「……今日も、ひどい咳だね」
アラタの目の前には、一体の「古い壊れた目覚まし時計」があった。それはかつて、豊かな農村で朝を告げていたものだろう。だが今では、規則的な歯車の回転を忘れ、内部には砂利と重油の鼻を突く匂いを放つ泥が詰まっている。
アラタは使い古した革の作業着の袖で額の汗を拭った。彼の周囲には、帝国の兵器の残骸である鈍色の装甲が積み上げられているが、アラタが向き合っているのは、それら「死んだ鉄」ではない。
彼はそっと、時計の裏蓋に指を触れた。
(……暗いよ……怖いよ……。また、あの熱い火の中に放り込まれるの……?)
指先を通じて、小さな、震えるような声が届く。付喪神――長年大切に使われた道具に宿る、神の端くれ。帝国はこの小さな魂さえも「霊的資源」として抽出し、機械を動かす燃料に変えてしまう。アラタにとっては、この場所は墓場ではなく、助けを求める者たちが集まる「野戦病院」だった。
「大丈夫。もう熱い場所へは行かせない。僕が、君の時間をもう一度繋いであげる」
アラタは、父から譲り受けた古い修理槌を手に取った。その柄は長年の使用で磨かれ、不思議な温もりを帯びている。
カチ、カチ……。アラタは時計の不協和音を聴き取る。規則的な歯車の回転がどこで歪み、どのネジが金属が擦れる不快な音を上げているのか。彼にはそれが見える。
「そこだ」
アラタは、あえて時計の心臓部ではなく、その隣にある小さな歪みに向かって、槌を軽く振り下ろした。
――カランッ。
それは、廃棄都市の喧騒を消し去るような、清らかな鈴の音だった。瞬間、時計の内部に詰まっていた錆びた泥が、弾けるように外へと溢れ出した。止まっていた歯車が、一瞬だけ木漏れ日の粒子を浴びたかのように黄金色に輝く。
チク、タク、チク、タク……。
時計が、呼吸を始めた。付喪神の怯えた声は消え、代わりに穏やかな歌のような規則正しい刻みが、アラタの手のひらに伝わってくる。
「……よかった。いい夢を見て」
アラタが微笑んだその時、小屋の外から不吉な音が響いた。冷酷な進軍の足音。それは、帝国の徴発部隊が、新たな「燃料」を探しに来た音だった。
「総員、散開せよ! 霊的反応のあるガラクタは全て回収し、抽出機へ回せ!」
壁の隙間から見えるのは、規則的な歯車の回転音を響かせて動く、巨大な神狩り用の装甲車。アラタは直したばかりの時計を布で包み、胸に抱えた。
(聞こえる……街中の神様たちが、震えている。……いや、それだけじゃない)
アラタの耳に、もっと鋭く、もっと悲痛な、しかし烈火のような意志を秘めた「声」が届いた。
それは、この街のゴミ山へと追い詰められた、一人の少女の、そして一柱の誇り高き神の絶叫。
「……行かなきゃ」
孤独な調律師は、一本の槌を腰に差し、煤煙の空へと駆け出した。 これが、後に世界を奏でる少年と、鉄に縛られた神々の、運命の交響曲(シンフォニー)の始まりだった。
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