第二話
これは、私が大学時代の話だ。日々の生活費に困っていた私は、夏休みを利用して毎日アルバイトに明け暮れていた。
その当時私が働いていたのは、海沿いの工業地帯に位置するN山化学S浜工場だ。物流と生産を兼ねて建てられたそこでは、私のような短期のバイトだとか、生産ラインの管理、検品など多様な人々が日夜働いていた。
家から大きな駅へ出て、工場周辺を周回する電車に乗り継ぎ、そこからバスに揺られること三十分。決してアクセスがいい場所とは思えないけれど、仕事内容が簡単であったことと、日給が良かったことから、夏休みのあいだこの工場に通うことを決めたのだ。
その仕事内容は仕分けと梱包作業。ベルトコンベアの両脇に幾人かが並び、作業開始のチャイムと同時に流れてくる幾つかの商品をひとつにまとめ、パックに詰める。それを再びコンベアに戻すと、後ろに控えている別のバイトが作業に漏れがないかをチェックし、さらに別の担当がダンボールに詰め込んでいく。
作業自体は退屈だったけれど、それも生活のためと割り切って淡々と作業をした。数日もすれば次第に周りのバイト仲間たちとも仲良くなり、雑談するぐらいの間柄にはなっていた。
いつものように仕分け作業をして、午前が過ぎ、お昼の時間になる。私たちは同じチームの三人──リーダー的な役割で、古株の吉岡と、大学に進学したばかりの高橋と共に休憩室へ移動した。
休憩室では、すでに他のラインを担当しているバイトたちが数人話し込んでいる。私たちも適当な世間話をしながら、用意してきた菓子パンで適当に昼食を済ませる。吉岡は、地方出身の私と高橋に、都会での暮らし方だとかを教えてくれる。
工場の外からどん、と何かがぶつかるような大きな音が聞こえた。なんとも形容し難い音だ。ドン、という音とほぼ同時に、水が弾けたようなばしゃんという音。まるで厚い膜で覆われた球体が、地面に叩きつけられて破裂したような、今まで聞いた事のない音だった。
周りにいたバイト仲間たちが「なんだろう」と囁き合う。その囁きは次第に動揺に変わり、やがて、ひとりが立ち上がり、外へ見に行こうと言い出した。堰を切ったように部屋にいた皆が移動する。吉岡が「俺たちも行こう」と、半ば強引に私たちは外へと向かうことになった。
工場の外に出ると、中庭にはすでに人だかりができていた。社員と思われる中年の男たちが大慌てで何か指示をしている。作業用の紐を規制線代わりにし、植え込みの一角から人を遠ざけようとしている。それを困惑した表情で、多数の従業員たちが囲んでいる。「入るな!」とか「下がって!」と怒気の籠った声が響く。大変な状況であることはすぐに分かった。
人混みに押されるように立っていると、前方から様子を見に行っていた吉岡が人を押し退けるようにして戻ってきた。
「千猫くん、高橋くん、ヤバいよ。飛び降りだ」
飛び降り、と言う言葉にドキリと脈が上がる。先ほど聞いた音は、人が落ちる音だったのだ。「えっ、誰が飛び降りたんですか?」と高橋が尋ねる。
「隣の棟の社員みたいだ。あそこの部署、イビリが酷いって聞いたことがあるから、そのせいじゃないかな」と、吉岡がひとり納得したような表情を浮かべながら言う。
人混みの隙間から、植え込みがチラリと見える。ブルーシートで覆って目隠ししているが、あそこに落下したので間違いないだろう。そこから頭上に視線を移すと。四角い、無機質な箱のような屋上が見えた。
「あそこから落ちただと、助からないよなあ」と高橋が呟く。そのとき、建物の上に真っ黒な
にょろり。
ざくり。
触手は、建物の
「あ……あれ、み、見ましたか?」と、私が隣にいた吉岡に投げかける。吉岡はうん? と不思議そうな顔をしながら、「何もなかったけど?」と私を見る。視線を戻しても、そこには無機質な四角い屋上があるだけだった。
「気のせい? でも、今、確かに……」
そんなことを話していたところで、社員と思われる作業服の男の「早く戻れ!」と怒号と共に、人混みに押され、来た道を戻されかけたとき。
「ああああ! やっぱりだ!!」
どこからか叫び声が聞こえた。野次馬たちの目が一点に集中する。
「やっぱり! だから言ったじゃないかああああ!」
絶叫だ。何かにむけて野太い声がこだまする。
そちらに目を向けると、車椅子に乗った初老の男がブルーシートに向かって叫んでいるのが見えた。
「おい、ノグさん! 今はダメだ!」と焦った様子の社員が数人、慌てて駆け寄り、男を取り囲む。今日は帰ってくれ、と必死で止めにかかる。
「あああああああ……! だから祝っちゃダメなんだ! あんたも、あんたも。もうダメだ、ここはダメなんだよぉお!」
老人は全身がガタガタと震え、声を絞る。そうしているうちに、私たちは無理やりに工場の中へ押しやられてしまった。
「あの人、なんだったんですか?」と作業場へ向かう途中で吉岡に尋ねた。
「あの人、いつもいるんだよなあ」と吉岡。
どうやら、あの車椅子の男は、どこからかふらっと中庭に来ては、ぼんやりと空を眺めてるのだそうだ。誰もそれを気に留めない、というより何か気を遣っている様子であることから、この工場の関係者であることは間違いないらしかった。
私は、どうも釈然としない思いのまま、午後の仕事に戻ったのだった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます