第三話

 これは、とある工場で事務職として働いているNさんから聞いた話だ。

 Nさんが働き始めてすぐ、同僚からこの工場には奇妙な噂があると聞いた。過去に工場の男性と不倫関係にあった女が、精神を病んで自ら命を絶ったらしい。それ以来、工場でひとりで作業していると、人の気配を感じるだとか、啜り泣くような声が聞こえるのだそうだ。

 Nさんはそう言った話が特に好きなわけでもなく、興味もなかったことから、単なる噂話だろうと気にも留めていなかった。

 工場が建てられたのは昭和の終わり頃、長く稼働していればそういった噂話のひとつやふたつはあるだろう、なんて思っていた。

 

 Nさんが期末の事務処理に追われ、一人で遅くまで残っていたときのことだ。工場にひとけはなく、静けさがあたりを支配していた。

 最終バスの時間が迫る中、急いで書類をまとめていると、カランと事務室の外から何かが動く音が聞こえた。だれかがまだ工場に残っているのだろうかと思い、事務室のドアを開ける。ぎい、と金属の蝶番が軋む音を立てて開く。ドアから頭を突き出し、左右を見回す。

 廊下には何もなかった。ただ、灰色のコンクリートの壁が、まるで空間を塞ぐように無言で伸びているだけだ。

 気のせいだったのだろう。そう思い、ため息をついて席へ戻ろうとすると、向かいの机の卓上ライトが点いていることに気がついた。そこは今は誰も使っていない席のはずだ。椅子が少し引かれ、まるで誰かがついさっきまで腰掛けていたように、微妙に斜めを向いて止まっている。

 何か嫌な予感がした。Nさんが声も出せず固まっていると、再びカラン、とどこかで音が鳴った。今度はもっと近い。反射的に音の鳴るほうへ目を向けると、事務室の脇に設けられている小さな扉が目に入った。そこは確か、過去の資料や工場で使う備品を置いている倉庫で、用がなければほとんど開けることはない。

 息を飲んで扉を見つめていると、再び鈍い音がした。少し遅れて、カラン、カラン、と何かが転がり落ちたような音がする。やはり倉庫室の中からだ。

 ごくりと唾を飲み込み、恐る恐る扉を開ける。すると、赤い欠片と、乳白色の粉のようなものが足元に転がってきた。なんだろう、と思って赤い欠片をつまみ上げたところで悲鳴を上げる。艶やかな赤に凝った装飾が施されている。ネイルだ。ざらざらとした感触が指に伝わり、不快感に支配される。思わずそれを投げ捨てた。なんでこんなものがあるのだ、と思いながら唖然としていると、再びカラン、と音が鳴った。同時に、足元に赤い爪と、丸い乳白色の塊が転がってくる。まるで頭上から落ちてきたように感じた。

 恐る恐る視線を上に向ける。そこに。赤いネイルと乳白色の玉が、びっしりと張り付いているのが見えた。倉庫室の天井いっぱいに突き刺さっている。Nさんはその場に手をつき、力いっぱい叫んだ。喉が枯れるまで、いつまでも叫び続けた。


 そのあとで聞いた話だ。その女は、不倫関係に追い詰められ、社内の倉庫で首を括って死んでいたのだという。発見された時、仕事中だったのか、派手なネイルがいくつも折れていたらしい。真っ赤なネイルに、乳白色のデコレーション。まるで、何か祝い事でもあったかのような縁起のよさそうな色合いと、ぶらぶらと力無く紐に垂れ下がっている女の対比が、その場に居合わせたものの心に深く残ったそうだ。

 そのあとすぐ、Nさんは仕事を辞めた。そのあと工場がどうなったのかは知らない。

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