『卵』3秒間で解ける簡単な謎に迷探偵・海老川ポワレが挑むプチ・ミステリー

流城承太郎

空っぽのタマゴ

「彼が主演の公演は避けた方が良さそうですね」

観客席を立つなり、海老川えびかわポワレは秘書の梶井こずいに言い放った。

常より洒落しゃれ者のポワレだが、今日は特別に白いモーニングコートで決めている。同伴する梶井も正装するポワレに合わせ、ミモレ丈のすみれ色のドレスに身を包んでいた。


ポワレはいくつか段を上がると、開け放たれた劇場の内扉を足早に通り抜けた。

小柄な体格でちょこちょこと脚を動かして歩くそのさまはベンギンを連想させる。後を付く梶井は思わず含み笑いをした。


『ハムレット』の上演が終わったばかりでロビーは混みあっていた。

笑っているうちにポワレが人混みに消えそうになって、梶井は慌ててポワレの後を追った。

「ポワレさん、早すぎます」

「おっと、失礼パルドゥン」ポワレは剥きタマゴのように禿げあがった広い額をピシャリと叩いた。「私としたことがうっかりしてました」

ポワレは腕を組もうと、横に立つ梶井に左腕を差し出した。


「確かにあまり良いお芝居ではなかったですわね」

ポワレの好意を丁寧に無視すると、梶井は先ほどの話題を続けた。「でも初日ですし、お若いんですから」かく言う梶井はもう娘とは言えない妙齢だ。


「これからも良くなりそうには思えませんね」

おとなしく腕を引っ込め、ポワレはスタスタと劇場の外へと向かい始める。


その時だった。

バサリという音と共に、外から複数の悲鳴が上がった。

ポワレは慌てて駆け出した。



劇場の外では人々が足を止め、植え込みの一つに目を向けていた。

灌木かんぼくの上にドレスを身にまとった女性が仰向けに倒れていた。顔は白い仮面に覆われている。

駆けつけたポワレの目の前で、その仮面がハラリと外れ落ちた。

あらわになったその素顔に、集まった野次馬からどよめきが沸き起こった。

ツツジの花の上に肢体を横たえているのは、今、公演を終えたばかりの劇団に所属する看板女優だった。


「ポワレさん。この方……」

追いついたばかりの梶井が声を上げた。


「ええ、花葛ミオかずら みおですね」応えてから、ポワレは側にいた警備員に向き直った。「ああ、あなた救急車の手配を。幸いにも目立った外傷はないようですが」

ポワレは事情により長期休養中ではあるが警察官だった。こういった事件時の対応には手慣れている。


花葛の検分を終えたポワレは、自慢のカイゼル髭を撫でつけながら建物の屋上を見上げた。

「上に行ってみましょう」



花葛ミオが飛び下りたと思われる劇場の建物は四階建てだった。

その屋上に着いたポワレの眼に、まず転がっている二足の黒い靴らしきものが飛び込んできた。

おそらく花葛が跳び下りる際に脱げたものと思われた。

次に、その手前にある何か白いものが目に入った。


「あれ、なんでしょう?」

後ろから階段を上がって来た梶井が、出入り口に立つポワレの頭越しから屋上をのぞいて訊いた。女性ながら梶井はポワレよりも上背があり、男性の平均身長をも超えている。


「見てみましょう」

屋上に出て近づいて見れば、それはタマゴだった。殻を剥かれたゆでタマゴが一つ、不自然に屋上の床に立っている。


「ふむ」

口髭を一つ撫でつけると、ポワレは梶井を置いて手すりへと向かった。


手すりの手前には、先ほど見たシヤネルのローヒールが転がっている。黒く見えたがベージュと黒のバイカラーだった。

ポワレが下を覗いてみた時、ちょうど下から見上げた恰好の中年男性と眼が合った。


「これはこれはポワレさん。今そちらへ行きますよ」

ポワレとは旧知の仲である小山戸こやまと警部だった。


警部が到着するまでの間、ポワレはタマゴを検分することにした。

懐から取り出した万年筆でタマゴをつつき始める。


「いいんですかポワレさん」

「構いませんよ。これはなんかじゃありません」


タマゴが倒れ、二つに割れる。

ほらヴォワラ!」

黄身が入っているはずのタマゴの中心はからになっていた。


「なんなんですの、これは?」

「彼女は仮面をつけていましたね」

「ええ」

「あれは自分の顔を傷つけたくないという保身の想いからでしょう。女優としては当然の心理です。それがであることの証拠ですよ。こんな低層のビルから植え込みの上に飛び降りたって死にはしません。そして、このタマゴは……」


そこへ、四階から屋上への階段を上がって小山戸警部がやって来た。急いで来たのか息を切らしている。

「ハァハァ……いや、どうもどうもポワレさん。どうしてここへ?」


「私はいつもの観劇です。たまたま居合わせただけですよ。小山戸警部の方こそ、ずいぶんと早かったですね」

「実は我々にこんなものが届きまして」

小山戸がスーツのポケットから封書を取り出した。


差出人は『花葛ミオ』となっている。ポワレが中をあらためると、チケットの半券と共に招待状が入っていた。


「私以外にも何人か受け取ってるんです。マスコミ関係者にも届いたようで。何か起きるんじゃないかと思って来たら、ご覧の騒ぎですよ」

「なるほど。それで生タマゴがゆでタマゴに変わりました」

「なんですそりゃ」


期待通りの反応だったのか、ポワレは口元を緩めた。

「頭の中のモヤモヤした物がまとまったということです」


「ほほう。例のというわけですな。うかがいましょう


ある事件がきっかけでポワレは記憶障害を患っていた。今でも時折りぼんやりして意識が飛ぶことがある。そのため半ば強制的に暇を与えられていた。そんな状況にも関わらず、ポワレは私立探偵を名乗って彼なりに病気療養を愉しんでいる。


ポワレは梶井の方へ向き直った。

「ではミス梶井。これから容疑者を三人挙げます。その中から事件の真犯人を選んでください」


「あら、ポワレさん。先ほどは事件じゃないとおっしゃったじゃありませんか」

「ええ、転落は事件じゃありませんとも。事件は別にあります。そうですね警部」

「はい、実は花葛ミオの母親が……」

「ノンノンノン、待ってください警部。その先は推理の後にしてください」


小山戸は肩をすくめながら口をつぐんだ。


「では始めましょう」

ポワレはおもむろに『ハムレット』のパンフレットを開いた。そこにはキャストの写真やスタッフの名前が並んでいる。


「まずは主演の朝日平雄真あさひだいら ゆうま。まだ若手ですね。芝居はご覧の通りですよ」

「何度もつかえてましたわね」

「花葛ミオと恋愛関係にあるということで、スクープされていました。次にオフィーリオ役の卯月比奈乃うづき ひなのです。彼女は新人です」

「ミオさんが降板したので、急遽きゅうきょ抜擢ばってきされたんでしたわね。でもとても良かったですわ」

「おっしゃるボン通り」ポワレは微笑んだ。「期待が持てますね。最後に演出家の下槻黄三郎しもつき こうざぶろう。花葛ミオと折り合いが悪く、再三に渡って演劇論の違いからもめていたそうです」

「それで降板になったという噂でしたわね」

「そうでしたね。はい、では誰が本星ホンボシですかミス梶井」


ポワレはまた笑みを浮かべると、屋上の床にポツンと置かれているタマゴを指差した。

「ヒントはあれです」


「なんですか、あれは」

疑問を口にしながら、小山戸警部がおもむろにタマゴへと近づく。


梶井は首を傾げた。

「そうですわね。容疑者というのはどういう意味か分かりませんが、演出家の下槻黄三郎に抗議するために、ミオさんはこんなことをしたんじゃないでしょうか」


「その場合、タマゴは何を意味してるんですか」

ポワレが訊いた。


「下槻さんのお名前には『黄三きみ』が入っていますから、黄身なしで、つまり演出家を変えろという意味じゃないかしら?」

「なるほど。面白い解釈ですね」ポワレは笑った。小山戸警部の方へ向きを変える。「警部。警部ならどう解きますか」


「ははあ、これは……」呼ばれた小山戸は、置かれたタマゴの脇でしゃがんだまま二人の方へ向き直った。「黄身だけがないタマゴというわけですな。なぞなぞだったら……そうですな。卯月比奈乃ではどうですか」


ポワレが眉を上げた。

「タマゴとの関係は?」


「卵の黄身を抜いて、つまり点を取って卯というわけです。ま、冗談ですが」

答えて笑う小山戸につられて梶井も笑い声を漏らした。


「点を二つは取り過ぎですよ警部。惜しいですね。点を取るのは一つでないと」

「と、言いますと?」

「タマゴは、ギョクの子と書いて玉子とも書きますね。玉子から点を取るとどうなりますか」

「王子ですな。なるほど……つまりどういうことですかな」

「警部、あなた芝居を見ていたんじゃないんですか?」


首を傾げる警部を尻目に、梶井が身を乗り出した。

「王子というのはハムレットのことですね」

「その通ボンり。花葛ミオの母親が先日、何者かによって刺されました。重体だそうです」

「そんなことがあったなんて全然知りませんでしたわ」

「劇団女優の身内の事件なんて、そう大きく報じられることはありませんからね。ですが、本人だったらどうでしょう。おそらく花葛さんはセンセーショナルな事件を起こすことで犯人が朝日平雄真だとアピールし、マスメディアにも取り上げて欲しかったんでしょうね」


立ち上がった小山戸が二人の方へ歩み寄る。

「確かに身内の事件ではありますが、現場は一人暮らしをしている花葛ミオの自宅です。夜、花葛ミオを訪ねてきた母親が合鍵で玄関から入ったところ、背中から一突きされたようです。現場の荒らされ具合から強盗傷害として捜査を始めたばかりでした」小山戸は額に右手を当てた。「しかし、捜査方針が気に入らなかったんでしょうな。花葛ミオは、捜査方針の見直しを訴えたそうです。その時、彼女が上げたのが朝日平氏の名前です」


「あら警部、ご存じだったんですか」

梶井が素っ頓狂な声を上げた。


「ええ、まあ私は。ですから嫌な予感がして張っておったんですが、まさかこんな形になるとは思いませんでした。てっきり朝日平氏に害が及ぶものかと」

「でも、こんなことまでするなんて」

「まったくですな。交際が明るみに出てから花葛ミオが別れ話を持ち出し、別れる別れないでもめていたようです。そこへ母親の事件があってかなり錯乱したんでしょう」


ポワレが人差し指を振った。

「平常心でなかったのは花葛さんだけではありませんよ」ポワレは梶井に顔を向けた。「ミス梶井、あなた朝日平さんが何度もとちっていたと言っていましたね。お芝居も大したことはなかったですが、それ以上に集中力の欠如が目につきました」

「ええ。ああ、そういう訳でしたのね」

「おそらく。別れ話に我を忘れた朝日平さんが、花葛さんと間違えて彼女の母親を刺した可能性がありますね」


ポワレは小山戸の方へ向き直った。

「もう一度、その線で捜査してみてください警部」



後日、県警察の入念な捜査の結果、朝日平の自宅から犯行に使われたと思われるナイフが発見された。

その報告を兼ね、小山戸警部はご機嫌伺いにポワレの探偵事務所にやってきた。

ポワレが事務所を構えているのは、港湾地域に建つ瀟洒しょうしゃな集合住宅の一室。ポワレの自宅を兼ねた角部屋だった。


小山戸がブザーを鳴らすと、秘書の梶井がにこやかな笑顔で扉を開けた。今日はいつも通りのカジュアルなベージュ色のワンピースに身を包んでいる。

「あら、警部さん。あいにくポワレさんは散髪に行っているところですのよ。いつも通りなら後、十分ほどで戻られると思いますけど」


小山戸はトレードマークの中折れ帽を頭から降ろした。

「ずいぶん正確なんですな」

「だって毎日ですもの。決まってこの時間」

「あいかわらずですな。ポワレさんのオシャレ好きも。十分ぐらいなら待たせてもらっても良いですか」小山戸は手にした帽子で室内を指した。「中で」

「もちろん」


応接室は南から射す柔らかな日差しに包まれていた。

小山戸がソファに腰を掛けるのを見届けると、梶井はカーテンで仕切られたオープンキッチンへと消えた。


「実はここだけの話……」

言いにくそうに小山戸は咳払いした。


「なんですの警部? ああ、そうだコーヒーはお嫌い?」

「ああ、いえ毎日飲んでますよ。目覚ましにね」


話相手をしながらも梶井の手は止まらない。手早くカップとソーサーを棚から取り出すと、ポットから客用に用意されたコーヒーを注いだ。


「実はですな……実は花葛ミオはタマゴ好きでしてね……ポワレさんの推理は大筋は合っているんですがどうも……」


キッチンからトレイを手にして現れた梶井を目にすると、小山戸は膝を支えに組んでいる手を落ち着きなくこすり合わせ始めた。


「ええ、それで?」

言い淀む小山戸を梶井は促した。


「花葛ミオはタマゴ好きなんですが、その、黄身の部分だけが好きで、白身は大嫌いなんだそうです」

「ああ、そういうことですの」

梶井がテーブルの上にコーヒーを置いた。カップとソーサーがカチャリと鳴った。


「はい。ですから、あの日も決死のダイビングをする前に大好物のタマゴを食べ、あそこに白身だけを残した、とそういうわけでして」

「メッセージでもなんでもなかったと?」

梶井もソファに向き合った椅子に腰掛けると、空になったトレーを膝上に抱え込んだ。


「はい。元より彼女の主張は周知のことですし、あんな謎かけみたいな回りくどいことをする必要はないですからな」

「黙っていただいたこと感謝しますわ」

「驚かないんですか」

小山戸は眉根を上げた。


「いつものことですわ。それを見守るのも秘書の仕事だと思ってますの」


梶井から模範解答を得て、小山戸はほっと息を吐いた。この秘書は適任だ。

ですからな。もっとも、他人ひとが正解を当てると機嫌が悪くなる人ですから、以前からあんなものです」

「そうですわね」


梶井と小山戸はそろって苦笑した。

迷探偵ポワレはこのことを何も知らない。



Fin


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『卵』3秒間で解ける簡単な謎に迷探偵・海老川ポワレが挑むプチ・ミステリー 流城承太郎 @JoJoStromkirk

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