第2話
授業中、下敷きで顔を仰いでいるとトントンと肩を叩かれた。授業中に後ろを向くのは先生に失礼だと思ったので(顔を仰ぐのはいいのに)私は背中に手を回して指先をパクパクさせ、無視してないよのサインを送った。すると手先に何かが触れた。紙の質感。手紙だ。片手の指を大きく広げて手紙を受け取り前に持ってくる。机に広げた教科書の裏に隠しながらメモを広げた。
夏休みどっか行かない?
破かれたノートの端に達筆な文字が踊っていた。頬が緩む。どっか。どこでもいいのか。友達と。おでかけ。本当は来週から始まる夏休みが憂鬱だった。チョコに会えない長い日々が始まるのが。でも会える。ふたりで会える。デートだ。どこにいしよう。
「水族館にしよう」
放課後の帰路を辿る最中その行き先は思いの外あっさり決まった。意外だった。チョコが夏のデートにありがちな場所を提案してくれるのが。捻くれてるから大衆的なレジャーを模倣するようなことはしないと思ってた。別に水族館のこともチョコのことも貶してるわけではないけれど。
「魚が好きなの?」
「いーや別に魚にはそんなに興味ない。でも水族館って青いイメージあるっていうか、水槽って実際どこも青とか水色じゃん。面白いんだよね。海底に空があるみたいで」
空を仰ぎながらくるりと回る。広がるスカートのひだがゆらりと波打った。
当日は3時間かけて選んだキャミワンピに白いレースのカーディガンを羽織り家を出て、わざわざホームの一番端まで歩いて電車に乗った。早く会いたい衝動を発散させるために動き続けたかったのだ。待ち合わせの駅の改札前にチョコはいた。白く短いシャツにショートパンツ。スニーカー。都心には可愛い女の子はたくさんいるけれどチョコみたいな子はひとりしかいない。前のめりでかけ出すと履き慣れていないヒールのサンダルが足を引っ張る。二、三歩前に足が出た後、あわてて体勢を立て直す。
「走るんじゃなーい」
チョコの服装はシンプルだったけれど、普段下ろされている前髪が分けられていていつもより大人びて見えた。
「ごめん」
と言う口元がむずむずする。口角が自然に上がるのを抑えきれない。ホームへの階段を下りながら熱い脳内で話題を懸命に探した。普段どんな話をしていただろうか。お菓子、映画、テスト。なんでも良かった。私はいつもチョコの言葉に飢えてるみたいだ。
「暑さおかしいよね」
と言うチョコのおでこには湿った前髪がへばりついている。
「おかしいね」
目を合わせて笑うと心臓がくすぐったかった。
数分電車に揺られて降りたところは空と海が合体しそうなほど晴れていた。ガラス張りになったドーム型の建物は日光が差し込んで飲み込んだ人々ごと透明にしてしまいそうだ。地下に続くエレベーターを下がると目の前に大きな水槽が現れた。ひとつのガラスごとにいちいち長く立ち止まって魚の柄や顔や口を凝視する。透明。透明な泡。泡。気泡。を、光らせているのは光。太陽のあたたかい光。放射状に差し込む光線。レースのカーテン。そして赤、青、黄色、オレンジ、緑、紫。オールドワイフ、キイロハギ、タツノオトシゴ。神様が全部の絵の具を使っている。
「水族館って暗くて好き。この夏の太陽苦手だから屋内はありがたいなあ」
「夏休みだから子どもが多いけどね」
「まあね。でもあんま気にならない。子どもは好き。くさ〜いとか言ってる親にたまにムカっとするくらい。あ、クラゲ」
カラフルにライトアップされたクラゲの水槽の前でチョコが止まった。私は実はクラゲが好きじゃない。クラゲって水の流れに逆らわないでふわふわ浮いてて自由でいいかもしれないけれど、ずっと見ていると不安になる。外部から光を当てられたら簡単に色を変えてしまうその不安定さや、壊れやすい透明な冠の儚さ。自分の軸も意志もなく彷徨い続けて、どこか遠いところに行ってしまいそうだから。だけどクラゲを見つめて極彩色に染まるチョコの瞳が綺麗だったので、ずっと見ていられた。そう。私はチョコのことをずっと見ていた。授業中に口をとがらせてシャーペンを鼻と唇の間に挟むチョコ。渡り廊下の自販機で紙パックのミルクティーを買って飲むチョコ。信号待ちの時に肩からさげたスクールバックをリズミカルに叩くチョコ。いつでも、どこにいても見ていた。だからすぐに気付いてしまった。チョコが目線を向ける先の男の子の存在に。
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