私の可愛いチョコレート
すずめ
第1話
ゆで卵の殻を割ったら白身の一部が黄緑がかっていた。一週間ほど前にたくさん茹でて冷蔵庫に入れておいたのが見事に腐ったのだ。だめだな。作りすぎると。すえた匂いを漂わせるゆで卵を見つめていると、かつての記憶が脳味噌にボコボコ湧き上がってきた。
「どうしてプールに入りたくないんだ。理由を言ってみなさい」
高校1年の夏。人の少ない職員室で首にタオルを巻いた体育教師が座ったままの身体をこちらに向けて言った。短髪から顎にまでしたたる汗を見ていられずに白い壁にかかった電波時計に目を逸らす。4時。
「これで8回目だろう。単位を落としたら進級できないぞ。いい加減にしなさい」
「……」
「返事をしなさい」
耳の奥でキーンと耳鳴り。早くここから逃げ出したい。本当にこんなやつの言うことなんか聞かないでさっさと逃げ出してしまえばいいのに、足が言うことを聞かない。空間ごとセメントで固められたみたいだ。
「腐ったゆで卵がなんか言ってる」
少し空いた窓の隙間から風が吹いた。声の方を見ると、短いプリーツスカートを風に戯れさせた少女が立っていた。制服は着ておらず、来客用の赤いスリッパを履いていた。転校生だろうか。
「聞いてるのか?」
腐ったゆで卵。変色してぶよぶよの。
「次休んだら補習授業を受けてもらうからな」
職員室を出る間際、窓の方をチラリと見るといつの間にか空に一筋の飛行機雲が伸びていた。夏が来る前の青い空。
翌日、転校生としてチョコが私のクラスに来た。
「今日からこのクラスの一員になります、
彼女は右手で目にかかった前髪をいじってから、
「琳津……千代子っす」
ぼそぼそと口を動かした。曲がった眉と斜め上に逸らした視線。そのスカした転校生にクラスメイトがみな顔を顰めるなか、私は思わず吹き出してしまった。
初対面の印象がお世辞にも良いと言えなかったチョコは、当然クラスに馴染めなかった。クラスメイトには避けられチョコ自ら話しかけに行く様子もなかったので、休み時間になると彼女の孤立は目立っていた。しかしそれは私も同じだった。誰とも話さない休み時間に自分と同じ状況にある人がいるというのは私にとって救いだった。
そんなある日の放課後、チョコの机にクラスで2番目に可愛いと言われている石井さんがぶつかって、その拍子にスクールバッグから飛び出ていた教科書やらノートやらがバサバサと木造の床に落ちた。石井さんはチョコの顔をチラッと見ると、履き潰したローファーで落ちた水色のノートを踏みつけた。チョコは突然の出来事に反応ができないのか、目を見開いてその子のことを見つめた。
「踏んでるよ」
声が聞こえたと思ったら発生源はまさかの自分だった。勇敢にも石井さんの前に立ちはだかって。女の子は意外な人物の登場に一瞬怯んだように見えたが、足を退けるとパン!と手を合わせて愛らしく笑った。
「ごめーん!気づかなかった」
「弁償して?千円ね」
チョコは即座に言い放った。
「そんなにするわけねぇだろ」
石井さんはこちらを睨みながら舌打ちを落とし、スタスタと教室を出て行った。
「大丈夫?」
「ありがとう」
そのことがあってから、私はチョコとよく話すようになった。蓋を開けてみれば彼女はとにかく饒舌な女の子だった。「あのねー」から始まる会話は「会話」というよりただひたすら「あたしの話を聞いてくれ」。このブランドのこのニットがデコルテ開いてて色もきれいなんだよ「ねぇ超かわいくなーい?」道ばたでああいう人がいたからこうしてやったのにそしたらあんなこと言うんだよ「こんなのってひどくない?」あの子がこう言うからこういう風にしたのにこっちの子がああ言うから板挟み状態でやりづらいんだよね「あいつらいつか殺します」
話してる時のチョコはとても上機嫌で可愛い。同じ話をたびたび繰り返して人によってはうるさいと思われる彼女の性格も話すのが得意じゃない私から見たら羨ましい特性だった。足を立てて椅子に座ったりガニマタで歩いたり話しながら片手で頭を掻く癖はお父さんの影響らしいけれど、そういうひとつひとつのしぐさが私には可愛らしくてたまらない。
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