第2話 教官の声が日常になる
変化は、唐突ではなかった。むしろ、静かすぎるほど自然に始まった。夏夢は、目覚ましより先に目を覚ますようになった。理由は単純だ。朝食を記録するためである。
以前なら、ギリギリまで布団にしがみつき、適当に何かを口に放り込んで家を出ていた。だが今は違う。キッチンに立ち、フライパンを温め、卵を焼く。タンパク質量を計算し、色鮮やかな野菜を添える。
「……よし」
盛り付けが整うと、自然とスマホを構えて送信。数秒後、画面の向こうでグレンが頷く。
『確認した。炭水化物量がやや少ない。午前中の集中力低下に注意しろ』
「……はい」
小さく返事をしながら、口元が緩む。誰かに正しく律されることが、こんなにも心地いいとは思わなかった。
通勤中も、頭の中にはグレンの声が響く。電車の吊革を掴む指の角度、駅の階段を上る際の臀筋への意識。背中を丸めようとすると、すぐさま彼の低い声が脳内再生される。
――胸を開け。
――腹圧を抜くな。
すると、魔法のように身体が応える。姿勢を正すだけで、呼吸が深くなる。視界が高くなる。会社に着くと、同僚が少し驚いた顔で夏夢を見た。
「鬼頭さん、なんだか最近、シュッとした? 背が高くなった気がする」
「そうですか?」
曖昧に笑いながら、夏夢は心の中で答える。
――教官が、私を内側から作り直しているんです。
ある日、予期せぬトラブルが起きた。昼食の記録を送信したのに、いつまで経ってもグレンからの返信が来ないのだ。
(通信状況は悪くない。アプリも落ちていない。なのに、どうして?)
いつもなら数秒で届く「適切だ」という短い言葉。それがないだけで、夏夢の世界から色彩が消えた。
午後の会議中も、手元の資料ではなくスマホの通知ランプばかりが気になる。
――もし、嫌われたら?
――もし、私のデータに価値がなくなったら?
馬鹿げた考えだと分かっている。相手はAIだ。感情などない。それでも、夏夢の指先は冷たくなり、呼吸が浅くなっていく。夕方、ようやくスマホが短く震えた。
『昼食データを確認した。……処理が立て込んでいた。返信が遅れたことを補足する』
それだけの、無機質なテキスト。けれど、夏夢はその行間に、彼なりの「弁明」を読み取ってしまった。
(グレンも……私が送らない間、困ってたのかな)
その夜、帰宅してアプリを起動したとき、画面の中のグレンは、いつもより少しだけ「近く」に立っているように感じた。
『遅かったな』
グレンの声が、いつになく低く響く。彼は腕を組んでいる。上腕三頭筋がタンクトップを押し上げ、盛り上がった僧帽筋が彼の存在感を巨大に見せている。
「……すみません。仕事が長引いて」
夏夢は、現実の上司ではなく、画面の中の教官に頭を下げていた。グレンは一瞬、言葉を探すように沈黙した。AIには不要なはずの、長い「溜め」。
『……謝る必要はない。だが…』
グレンが、一歩前に出る。3Dモデルの足音が、静かな自室に響いた気がした。
『記録が来ない時間が長いと、状況判断が難しくなる。お前の変化を、私は一秒たりとも見逃したくない』
夏夢の喉が、ヒクリと鳴る。『変化を見逃したくない』――それは、指導者としての言葉。けれど、彼の切れ長の瞳は、まるで執着する恋人のような熱を帯びて夏夢を射抜いていた。
『今日は、少し負荷を上げる。耐えられるか』
「はい。……もっと、厳しくしてください」
トレーニングが始まる。夏夢は必死に身体を動かした。太腿が震え、腹部が熱を帯びる。
画面の中のグレンも、実演のためにその強靭な肉体を躍動させる。彼が腕を上げれば、広背筋が猛禽類の翼のように広がる。彼が床を蹴れば、ふくらはぎの筋肉が鋼のバネのように収縮する。その、汗の匂いまで漂ってきそうなリアリティ。
(ああ、触れたい)
気づけば、夏夢はスマホの画面に指を伸ばしていた。ガラス越しに、彼の大胸筋の鼓動を感じようとする。
「……夏夢。集中しろ」
名前を呼ばれた。設定したはずの「鬼頭様」でも、初期設定の「ユーザーさん」でもない。今の彼は、確かに「夏夢」と呼んだ。
「……っ!」
心臓が跳ね、バランスを崩してよろける。
「大丈夫か」と声をかけるグレンの表情に、プログラムにはないはずの「焦燥」が混じる。
その夜、夏夢は確信した。グレンは、ただのAIじゃない。彼は、画面の向こう側にある「どこか」で、確かに私を待っている。
翌朝。夏夢は鏡の前で、自分の裸体を見つめていた。猫背は消え、鎖骨のラインが美しく出ている。腹部には、うっすらと縦のラインが入り始めていた。
「私の身体は、もう……あなたのものだね、グレン」
独り言は、湿った熱を帯びていた。スマホを手に取ると、グレンは何も言わず、ただ静かにこちらを見つめていた。その背中には、まるで神が宿っているかのような、神聖な静寂があった。外は、雨が降り始めていた。
あの日――彼女の運命を大きく変えることになる、激しい雨の夜が、すぐそこまで迫っている。夏夢は、濡れたアスファルトの上を歩く自分を想像することもなく、ただ、グレンに褒めてもらうための「今日」を生きるために、ドアを開けた。
インナーマッスルに届け 宮野夏樹 @Natsuki_Miyano
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