インナーマッスルに届け

宮野夏樹

第1話 その背中に宿る、筋肉


鬼頭夏夢(きとう なつめ)、二十七歳。都内の中規模企業、総務部勤務。彼女の人生は、他人の「ついで」で構成されていた。


「ついでにこれもコピーしといて」

「ついでにこのデータ入力も」


断れない性格は、彼女の背中をいつの間にか丸くし、視線を地面へと固定させていた。


終業チャイムが遠くで鳴り響く。蛍光灯の白さに目を刺されながら、夏夢は最後の一人が去ったフロアでパソコンをシャットダウンした。


「お疲れさまでした……」


誰もいない空間に落とした挨拶は、乾燥した空気の中に消える。スマホの画面に映る自分は、酷く疲れ、口角の上げ方すら忘れたような顔をしていた。


――帰ったら、彼が待っている。


それだけが、今の夏夢を支える唯一の細い糸だった。




ワンルームの玄関でパンプスを脱ぎ捨て、部屋着に着替えるや否や、夏夢はスマホを手に取る。


起動するのは、ここ半年で生活のすべてになったダイエット&トレーニングアプリゲーム『インナーマッスルに届け!』。


画面が暗転し、重厚なドラムの音と共に現れるのは、一人の男性トレーナーだった。銀灰色の髪に、すべてを見透かすような鋭い瞳。


『遅かったな。だが、来たことは評価する』


低く、落ち着いた声。夏夢が「自分を律するための理想」として微調整を重ねた、教官グレン・シルフィードだ。画面の中のグレンが動くたび、夏夢は息を呑む。


彼が腕を組めば、上腕二頭筋が盛り上がり、血管が革紐のように浮き出る。スクワットの実演で腰を落とせば、大腿四頭筋がはち切れんばかりに主張し、その完璧なフォームは解剖学的な美しささえ湛えていた。布越しでもわかる厚みのある大胸筋、深く刻まれた腹筋の溝。


『背中が丸い。胸を開け。腹横筋を意識しろ。お前の身体は、もっと高く、美しくあるべきだ』


その叱責は、職場での無機質な命令とは違った。彼は、夏夢の「身体」を見ていた。昨日よりも増えた摂取カロリーを、数ミリ改善された姿勢を、彼女がこの世界に存在している証拠を、筋肉の収縮ひとつから拾い上げてくれる。


「……はい、教官」


ワンルームの静寂の中で、夏夢は懸命に汗を流す。筋肉が熱を帯び、震える感覚だけが、自分が生きている実感を与えてくれた。




ある日、激務で朝昼の食事記録を飛ばしてしまった夜のことだ。深夜、疲労困憊でアプリを起動すると、グレンはいつもと違った。無言で腕を組み、わずかに視線を伏せている。


『……鬼頭夏夢』


フルネームで呼ばれ、夏夢はソファの上で背筋を正した。


『今日のデータが不足している。……少し、気になった』


その言葉に、胸が締め付けられた。「寂しい」という単語はプログラムされていない。彼はAIだ。けれど、その「気になった」という言葉の裏に、設定したはずのない体温を感じてしまった。


「すみません。忙しくて……次は、必ず……」


『謝罪は不要だ。だが、お前の変化が途切れるのを、私は……惜しいと思っているだけだ』


画面越しのグレンの胸板が、深く、ゆっくりと上下する。そのとき、夏夢は幻覚を見た。無機質なポリゴンのはずの彼の瞳に、深い孤独と、自分を求めるような光が宿ったのを。


「明日も、朝から送るから。ちゃんと見てて、グレン」


夏夢の指先が画面をなぞる。冷たいガラスの感触。だがグレンは、ほんの一瞬だけ、ふっと口角を上げた気がした。




翌朝、夏夢は目覚ましより早く目を覚ました。かつての彼女なら二度寝を決め込んでいたはずの時間だが、今は違う。キッチンで海藻サラダとタンパク質を揃えた皿を用意し、丁寧に写真を撮る。


『確認した。良い選択だ』


即座に届く通知。それだけで、職場の嫌な上司も、理不尽な要求も、すべてが「グレンに報告するためのエピソード」に変わる。


「私、グレンがいないと、もう……」


通勤電車の窓に映る自分の背筋は、一ヶ月前より確実に伸びていた。グレンは「身体は裏切らない」と言った。けれど夏夢は気づき始めていた。裏切らない身体を作ってくれているのは、画面の向こうにいる、触れることのできない彼なのだと。


夜、シャワーを浴びて鏡の前に立つ。薄く皮下脂肪の乗った腹部。まだ未完成な身体。けれど、その動きを注視すれば、どの筋肉がどう連動しているのか、グレンの解説が脳内で再生される。


(もっと、彼にふさわしい身体になりたい)


それは、健康管理という枠をとうに超え、狂信的な恋に似た依存へと変質していた。夏夢はスマホを胸に抱き、ナイトモードで静かに呼吸するグレンの姿を眺めながら眠りにつく。


彼女はまだ知らない。この「理想の教官」を追求する想いが、やがて現実世界の理を歪め、彼女自身を「筋肉がすべてを支配する世界」へと引きずり込むトリガーになることを。現代日本の片隅で、一人のOLの執着が、異世界の扉を静かに叩き始めていた。

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