第9話 境界線の向こう側

 第六層の入口は、これまでとは明らかに違っていた。


 岩壁は黒く、空気は重い。

 息を吸うだけで、胸の奥がじんと熱を持つ。


「……ここが、境界線か」


 ジャンは小さく呟いた。

 地上と地下の差ではない。

 深層と、さらにその奥。


 踏み込んだ瞬間、世界が変わった。


     ◆


 魔素が、濃すぎる。


 霧どころではない。

 流れとなり、渦となり、肌にまとわりついてくる。


 だが――。


 ジャンの身体は、悲鳴を上げなかった。


 むしろ、整っていく感覚があった。

 呼吸、鼓動、筋肉の動き。

 すべてが噛み合っていく。


「……これが、第六層」


 同時に、理解する。


 ここは、戻れなくなる可能性がある場所だ。


     ◆


 魔物は、今までとは質が違った。

 数ではない。

 一体一体が、圧倒的に強い。


 最初の遭遇戦。

 刃を交えた瞬間、腕に衝撃が走る。


「……重い」


 だが、耐えられないほどではない。


 一撃を受け、動きを読み、かわす。

 反撃は、最小限。


 力任せではない。

 理解して戦う。


 魔物が倒れるまで、そう時間はかからなかった。


     ◆


 進むほど、身体はさらに馴染んでいく。

 だが同時に、違和感も生まれていた。


「……強く、なりすぎてる?」


 判断は冷静だ。

 だが、力が溢れている。


 このまま進めば、

 地上に戻ったときの反動は、想像もつかない。


 それでも、足は止まらなかった。


     ◆


 第六層の奥。

 そこにいたのは、人影だった。


「……人?」


 一瞬、そう見えた。


 だが次の瞬間、理解する。


 人の形をした魔物。

 いや――魔素そのものが、形を取っている。


「侵入者か」


 声が、直接頭に響いた。


「……試練、だな」


 逃げ場は、ない。


     ◆


 戦いは、激しかった。


 相手は速く、正確で、迷いがない。

 こちらの動きを、先読みしてくる。


「……っ!」


 一瞬の遅れが、致命傷になりかねない。


 だがジャンは、踏みとどまった。


 呼吸を整え、感覚を研ぎ澄ます。

 魔素の流れを読む。


「……見えた」


 相手の動きは、魔素の反射だった。


 なら――。


 一歩、踏み込む。

 刃を、迷いなく振る。


 衝撃。

 そして、静寂。


 人型の魔物は、崩れ落ち、霧となって消えた。


     ◆


 膝に手をつき、息を吐く。


「……勝った、のか」


 身体は、限界に近い。

 だが、意識ははっきりしている。


 同時に、強烈な警告が走った。


 ここに、留まるべきではない。


     ◆


 帰還は、これまでで最も過酷だった。


 一歩進むごとに、力が抜ける。

 世界が、遠のいていく。


「……まだ、終わってない」


 歯を食いしばり、前に進む。


 ダンジョンの出口が見えたとき、

 ジャンは、ほとんど倒れ込むように地上へ出た。


     ◆


「――戻ったか」


 聞き慣れた低い声。


 ガドルが、そこに立っていた。


「……はい」


 それだけ答えて、ジャンは意識を手放した。


     ◆


 目を覚ましたとき、天井が見えた。


 医務室だ。


「……第六層は?」


「十分だ」


 ガドルは短く言った。


「生きて戻った。それが、答えだ」


 その言葉の意味を、ジャンは理解した。


 地上最弱。

 深層最強。


 その境界線を、

 彼は確かに越えていた。

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