第四章 焦土の村と牙を剥くもの
灰色の空の下、二人は黙々と歩を進めていた。
目的地は、かつて「ハヴェン」と呼ばれた小さな交易の集落。
深淵の辺境に位置しながら、近隣の住人たちが穏やかに行き交う数少ない安息の地だった。
しかし、数日前から外部との連絡がぴたりと途絶えていたという。
「最近、あの辺りの瘴気が急に濃くなってる。何か……悪い予感がする」
リラの声は低く、険しかった。
彼女の銀色の瞳には、普段の優しさとは違う、鋭い警戒心が宿っていた。
二人は廃坑の坑道を抜け、崩れた谷間を越えて進んだ。
道はかつての戦場跡らしく、折れた防壁の残骸や、錆びついた武器の破片が散乱している。
空気は重く、硫黄と腐敗の臭いが混じり合い、息苦しかった。
やがて、坑道の奥深くで──異様な気配が二人を包んだ。
「瘴気にやられて……正気を失ってる」
リラの言葉通り、そこにいたのは、もはや「深淵種」と呼べる存在ではなかった。
かつては小型の魔族だったのだろう。
だが今は、目は白く濁り、皮膚はただれ、牙と爪だけが異様に伸び、獣そのものと化していた。
十数体、いや、二十体以上。
低く唸る息遣いが、坑道全体に反響する。
「来るぞ!」
アレンは即座に剣を構えた。
剣は重くはない。
だが、手に馴染む感覚に、わずかなズレがある。
身体が完全に「戻っていない」証拠だった。
(力が出しきれてない……?)
一体、二体と斬り伏せていく。
剣先が空を切り、血飛沫が壁に飛び散る。
三体目、四体目……。
その間も、アレンは自分の異変に気づいていた。
胸の奥に、いつもの熱がない。
かつての力が目覚めるはずの場所が、ただ冷たく沈黙している。
(あの“印”が……光らない)
それでも、魔力は確かに生きていた。
「燃えろ!」
彼は短く叫び、掌を前に突き出した。
指先から迸った炎が、一直線に群れの中心へ炸裂する。
爆風が坑道を震わせ、十数体が一瞬で吹き飛んだ。
壁が熱でひび割れ、煙が立ち上る。
(魔法は問題ない。それに……)
斬撃を交わしながら、アレンは感じていた。
戦うたび、身体の反応が少しずつ研ぎ澄まされていく。
速度、間合い、判断力――すべてが、かつての鋭さを取り戻し始めている。
「はあっ!!」
剣閃が冴え渡る。
弧を描く一撃が、数体を同時に薙ぎ払う。
リラの目には、それがまるで静かな「舞」のように映った。
「……強い」
彼女の呟きは、戦いの喧騒の中でかすかに聞こえた。
戦闘の後半、アレンは完全に優勢に立っていた。
特別な力も、宿命の印も使えない。
それでも、彼は圧倒した。
最後の獣が倒れ、坑道に静寂が戻る。
息を整えながら、二人は坑道を抜けた。
そこに広がっていたのは――焼け落ちたハヴェンの残骸。
地面は真っ黒に焦げ、建物は骨組みだけが残り、灰が風に舞っていた。
まさに焦土。
命の気配は、ほとんど感じられない。
「こんな……」
リラが言葉を詰まらせ、立ち尽くす。
そのとき、遠くから、微かな泣き声が聞こえた。
瓦礫をかき分け、アレンが駆け寄ると、そこにいたのは小さな深淵種の子ども。
角が短く、翼の芽もまだ生えていない幼子。
かすかな息をしながら、灰にまみれて震えていた。
「大丈夫だ。もう安心だ」
アレンは優しく抱き上げ、子どもを胸に抱きしめた。
小さな身体が、わずかに温かかった。
しかし、その瞬間――
「ほう……こんな辺境に、珍しい客人だ」
声が、上空から降ってきた。
振り向いた先に立っていたのは、長身の異形。
黒いローブに身を包み、巨大な鎌を肩に担いだ男。
フードの下から覗く口元に、歪んだ笑みが浮かんでいる。
「我が名はシグモド。混沌の番人……いや、今なら“新たなる破壊の使者”と名乗ってもいいかな?」
「お前が……この村を……!」
アレンが剣を構えると、シグモドは軽く肩をすくめた。
「戦いたければ、いつでもどうぞ。だが、今のお前では、我が爪の先に触れるのがやっとだろう。あの“力”が沈黙している限りはね」
「……!」
一瞬、アレンの心に動揺が走った。
(こいつ……知ってる。俺の“力”のことを)
シグモドはそれ以上戦う気配を見せず、ただ低く笑った。
「では、また会おう。次は“屍の山”の上で、勇者殿」
言葉を残し、シグモドの姿は瘴気に溶けるように消えた。
同時に、周囲の空気がさらに重く淀み始める。
リラが慌ててアレンの肩を引いた。
「まずは、この子を安全な場所へ!」
アレンは黙って頷き、子どもを抱いたまま駆け出した。
今はまだ、その謎に深く迫る時ではない。
だが、心の奥底で、何かが確かに動き出していた。
(この力が通じないなら……俺は、それ以上のものを自分で作り出す)
灰と煙の向こう、焦土の村を後にしながら、
アレンの瞳には、静かで、しかし激しい決意が宿っていた。
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