第3話
その日も雨だった。
六月の雨は、降るというより、空気に染み込んでいるようだった。
図書館の入り口のマットには、濡れた靴の跡がいくつも重なっていた。
その中に、彼女のものがあった。
小さくて、まっすぐな足跡。
「こんにちは」
その声が聞こえたとき、俺はちょうど貸出カードの整理をしていた。
顔を上げると、制服の袖口が濡れていて、髪の先から水滴がぽたりと落ちた。
「こんにちは。ところで傘は?」
言葉を返しながら、俺は彼女の肩や腕に目をやった。
制服の生地が肌に張りついている。
雨粒が、袖口からじわじわと染みているのが見えた。
「持ってなくて」
彼女はそう言って、少しだけ首をすくめた。
言い訳のようでもなく、開き直りでもなく、ただ事実を述べただけのような声音だった。
けれど、その無防備さが、どこか痛々しく感じられた。
俺は、カウンターの奥からタオルを差し出した。
引き出しの中に、来館者用の予備として置いてある白いタオルがあった。
それを手に取って、彼女に差し出す。
余計なお世話だと思われるかもしれない。
けれど何もしないままでいるには、彼女の濡れた髪があまりにも静かに、そこに在りすぎた。
彼女は少し驚いた顔をしたけれど、すぐに両手でそっとタオルを受け取った。
「ありがとうございます」
彼女の声は、さっきよりも少しだけ柔らかかった。
「風邪引かないようにね」
言葉をかけながら、自分の声が少しだけ上ずっているのを感じた。
彼女のことを心配しているのか、それとも、自分の中に生まれた感情に戸惑っているのか。
その境界は、もう曖昧だった。
「大丈夫です。慣れてるんで」
慣れてるという言葉が、やけに重たく響いた。
彼女は、いつものように文芸書の棚へ向かった。
俺は貸出処理の手を止めて、彼女の背中を目で追った。
谷崎、太宰、三島。
彼女が手に取るのは、どれも古い作家ばかりだった。
その選び方に、何かしらの意図があるように思えた。
けれど、それを訊くことはできなかった。
しばらくして、彼女がまたカウンターに戻ってきた。
手には、薄い文庫本が一冊。
「これ、読みました?」
表紙を見ると、芥川龍之介の『河童』だった。
大学時代、講義の課題で読んだ記憶がある。
内容はおぼろげで、細部はほとんど思い出せなかった。
それでも、あの読後の奇妙な感覚だけは、今も残っていた。
「昔、読んだよ。大学の頃かな」
そう答えながら、記憶の底を探るように言葉を選んだ。
彼女がなぜこの本を手に取ったのか、その理由を知りたいような、知りたくないような気持ちだった。
「どうでした?」
その奥には、何かを確かめようとする気配があった。
俺の答えが、彼女の中の何かと重なるかどうか。
そんなことを、ほんの一瞬だけ考えた。
「……不思議な話だった。笑えるようで、笑えない。でも、どこかで笑ってしまう。そんな感じだったかな」
言葉にしてみると、思っていたよりも曖昧だった。
けれど、彼女はそれを否定せず、むしろ少しだけ笑った。
「ですよね」
その笑みは、ほんのわずかに口元が緩んだだけの、けれど確かに笑みと呼べるものだった。
「前に読んだ本をもう一度読むことって、よくあるんですか?」
そう問いかけたあと、彼女の反応を待ちながら、俺はほんの少しだけ視線を逸らした。
彼女の目をまっすぐ見てしまうと、何かを強く求めてしまいそうだったからだ。
「この小説は、特別です。ただ、無性に…読みたくなる時があるんです」
彼女の声は、どこか遠くを見ているようだった。
懐かしさとも、寂しさともつかない感情。
その曖昧さが、かえって胸に残った。
俺にも覚えのある感覚だった。
理由もなく、ある一冊の本を手に取りたくなる瞬間。
そのとき、俺たちは何を求めているのだろう。
過去の自分か、誰かの声か、それとも、まだ言葉にならない何かか。
俺は何も言わずに、ただ頷いた。
それ以上の言葉は、必要ない気がした。
「じゃあ、また来ます」
彼女がそう言って、くるりと背を向けたとき、俺の中で何かが動いた。
濡れた制服、濡れた髪、濡れた声。
このまま彼女を帰してしまっていいのか。
「ちょっと待って」
俺はカウンターを出て、奥の部屋へ向かった。
忘れ物の傘がいくつか置かれている棚の中から、比較的状態のいい黒いビニール傘を選んだ。
半年以上前に置かれたまま、誰にも求められなかったもの。
それを手に取り、彼女のもとへ戻った。
「これ使って」
彼女は差し出された傘を見つめ、すぐには手を伸ばさなかった。
その間に、俺の中でいくつもの言い訳が浮かんでは消えた。
「え、いいんですか?」
その問いに、俺は少しだけ笑ってみせた。
「誰かの忘れ物だから。気にしないで」
言いながら、自分の声が少しだけ軽くなった気がした。
誰かが置いていったものが、誰かの役に立つ。
それは、悪くない循環だと思った。
「……でも」
「半年経っても取りに来ないから。結構多いんだよ、こういうの」
俺はそう付け加えた。
それは、彼女を安心させるための言葉だった。
けれど同時に、自分自身に向けた言い訳でもあった。
この行為に意味を持たせすぎないように。ただの傘の受け渡しに、余計な感情を重ねないように。
「そうですか。じゃあ、ありがとうございます」
彼女は傘を受け取って、少しだけ頭を下げた。
そのとき、髪の先から落ちた水滴が、カウンターの木目に小さな円を描いた。
それを見ているうちに何かを言いかけたくなったが、言葉は喉の奥でほどけて、形にならなかった。
彼女が出ていったあと、俺はしばらく本棚の間を歩いた。
何かを探すふりをしながら、ただ歩いた。
足音が、やけに遠くに聞こえた。
誰もいないはずの館内に、自分の気配だけが残っているような気がした。
記憶は、音から始まる。
そして音は、沈黙の中でこそ響く。
ノスタルジア症候群 林 @Hayashi__
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